光岡城 (みつおかじょう) ( 県の史跡)
最寄地 大分県宇佐市赤尾3660 2015.5.13
光岡城 (みつおかじょう) ( 県の史跡)
最寄地 大分県宇佐市赤尾3660 2015.5.13
登城ルート(緑線は車道)
入口駐車場
北側空堀
西側空堀
東側・土橋と虎口
主郭西側
光岡城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 表記番地北の市道交差点付近に「光岡城跡入口」の看板が建てられ、駐車場がある[マップコード145 408 084*42] (地図)。そこより南西へ緩やかな道があり750mほど行くと、城跡北駐車場がある[マップコード145 378 341*00]。
東西35m南北80mの長方形の郭を一周に亘り空堀と二重の土塁が巡らされ、外側土塁までの規模は東西80m南北140mとなっている。
北東の隅に虎口・土橋があり、北西と南西隅に櫓台が残り、特に南西側には石段が残っている。西側空堀の土塁は良く見ると石垣が残っている。
史跡公園には、城山として光岡城跡が登場する横光利一の「旅愁」文学碑が建立されている。北側正面に櫓跡が平面復元されている。昭和五十八年(1983年)4月12日大分県の史跡に指定された。
昭和五十八年(1983年)4月12日大分県の史跡に指定された。
【発掘調査】 発掘調査の結果、郭は柵・板塀で二分され、南側は岩盤が露出し、ノミにより彫られた小さい柱穴(直径、深さとも20cm程度)が多く出土した。
北側は粘土質の地盤であり、大きな柱穴群(直径40、深さ70cm程度)が出土した。特に入口正面の宇佐平野を一望できる部分には、4棟の大型建物が整然と配置されていた。このうち入口近くにある総柱のものは、その構造から櫓跡と推測され、同位置に平面復元されている。土器などの生活遺物はほとんど出土しておらず、生活を主にした城でなかったことを、物語っている。
【歴史】 光岡城跡は保存状態が良好な史跡で、天正八年(1580年)の『佐田文書』に敵に攻撃された際の詰城として使われた事などが記されており、築造の時期が明らかな点でも重要である。『宇佐市教育委員会説明板』より。
1350年(貞和六年・正平五年)赤尾次郎左衛門種綱によって築かれたと云われる。
赤尾氏は筑前の原田氏の一族で、足利尊氏から吉田村の地頭職に補任された。大内氏が宇佐地方を支配していた戦国時代に代々大内氏に属し、文明年間(1469~1487年)に吉田村を赤尾村に改めたという。
弘治二年(1556年)大友氏に降り、四日市の渡辺氏や高家の中島氏などと共に有力な大友氏方だったと伝えられる。
永禄九年(1566年)高尾城を落とし麻生氏を滅ぼした。 しかし、大内氏に属する土井城の佐野親重と時枝城の時枝平大夫によって攻撃され、赤尾統秀の次男行種は豊後へ逃れたが、それ以外の一族は討ち取られた。
天正6年(1578)、大友氏が日向遠征で大敗した後、豊前国は大友方と反大友方に分裂し、大友方であった赤尾統秀は、反大友方の軍勢から攻められ、「宅所(館)や切寄(光岡城)が攻撃された」という記録『佐田文書』が残されている。