鷲尾山城 (わしおやまじょう) (釈迦ヶ峰城) (県の史跡)
最寄地 広島県尾道市木ノ庄町木梨1733 2020.2.10
鷲尾山城 (わしおやまじょう) (釈迦ヶ峰城) (県の史跡)
最寄地 広島県尾道市木ノ庄町木梨1733 2020.2.10
登城ルート(緑線は車道)
説明板
南東登り口
観音堂・尾根道
4の段
南の2郭
主郭
北西6の段先端・大堀切
鷲尾山城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高210m】
【感想】 尾道市木ノ庄町木梨の標高330mの山頂に築かれている。頂上の主郭には建物礎石が点在し、神社横に城址碑が建てられている。
南の尾根に4段の郭、南西の尾根に馬場跡、北西の尾根に6段の郭がある。
他にも井戸跡や洞穴、堀切などがよく残り、見所も多く、標識が要所に立てられており、迷う事はない。
【案内】 県道158号線より城照庵(表記番地)に向かう途中の三叉路に、惣門跡の標識がある[マップコード48 517 178*33]。
左に行き約150m行くと城照庵があり案内板、説明板が建てられ駐車できる[マップコード48 517 295*73]。
すぐ先が2股になり左に行くと谷筋の林道で終点に駐車場が用意されているが、道は狭く草が生え、軽以外はきつい。今回は南東尾根から登ることにし、右に行くと墓地への登り口がある(地図)。墓地からそのまま南東の尾根道に繋がっている。
少し登って左の尾根に登ると、しばらくして出丸があり、観音堂との分れになるが、直進すると洞穴との分れがあり、左に登ってゆくと4の段に着く。その上に3の段、2の段があり、南の2郭に着く。
腰郭から虎口を登ると、主郭があり神社や礎石がある。北西に6段の段郭がある。その先に深い堀切が残っている。
昭和五十二年(1977年)年3月4日、広島県の史跡に指定された。
【歴史】 建武三年(1336年)足利尊氏に従い、博多多々良浜の戦いで戦功を立てた杉原信平・為平が木梨13ヶ村(尾道・後地・栗原・𠮷和・久山田・木原・猪子迫・白江・三成・市原・木梨・小原・梶山田)を賜り、木梨に鷲尾山城を築き居城とした。
以後、信平・光信・元盛・元直・光恒と続き、備後の覇者として武威を張った。
天文十二年(1543年)六月、富田月山城主尼子義久によって攻め落とされ、光恒は城内で自刃した。
その子・高盛は捕えられ投獄されたが、家臣角屋与八に助けられ、大内義隆の助けを得て鷲尾山城を奪還し、釈迦ヶ峰城と改めた。
その後、石原小次郎忠直に再び攻められ、高盛は戦死した。その子・元恒は古志氏を頼って新庄に落ち延び、小早川隆景を頼り、再度木梨に帰り石原氏を滅ぼし鷲尾山城の回復を計った。
天正十二年(1584年)元恒は千光寺山に権現山城を築き城替えとなった。
毛利氏の中国統一、更には豊臣秀吉の全国統一によって鷲尾山城は事実上廃城となった。『城照庵の説明板』より。