飯盛山城 (いいもりやまじょう) (飯盛城)
最寄地 大阪府大東市北条(大字)2377−10 2018.7.11
飯盛山城 (いいもりやまじょう) (飯盛城)
最寄地 大阪府大東市北条(大字)2377−10 2018.7.11
登城ルート(緑線は車道)
馬場跡・楠公寺
本丸東切岸・帯郭
東側の石垣
本丸高櫓郭・城址碑・楠木正行の銅像
本丸・城址碑
本丸三本松郭
本丸二の丸間の 堀切
二の丸史蹟碑郭
飯盛山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【感想】 大東市と四條畷市の境界にあり、標高314mの飯盛山山頂に本丸を置き、南に一つ、北に4つの主要郭が配置されている。堀切や石垣など、よく残っている。
【案内】 大阪から奈良方面へ向かう場合、中央分離帯のある阪奈道路(府道8号線)の「竜間交差点」の先約600mに楠公寺の標識があり、左折し細い道路を約2km行くと楠公寺駐車場に着く(表記番地[マップコード11 483 598*36])。奈良から大阪方面に向かう場合「竜間交差点」でUターンする。
野外活動センターを過ぎた辺りから道路は狭くなり、すれ違いも困難になり、路肩も所々崩れた箇所もあるので注意して通行する。
楠公寺敷地が馬場跡で、左に登って行き、左へ舗装道を登るとFM送信所が建つ本丸千畳敷郭に着く。
戻って北に行き左に登ると、本丸展望台郭があり南に一段高く本丸高櫓郭がある。楠木正成の嫡男楠木正行の銅像や城址碑、説明板が建てられている。
北に下ると、本丸倉屋敷、本丸三本松郭が階段状に並び堀切に出る。
北に登ると、二の丸御体塚郭、北端に史蹟碑郭がある。東側の周回路に石垣が残っている。
【歴史】 正平三年(1348年)一月五日の四條畷の戦いで、北朝方の高師直が6万の大将として四條に着陣した。太平記によると、「縣下野守、その勢五千余旗飯盛山に打ちあがりて」という記載が見られ、南朝方の恩地氏が飯盛山城に立て籠もったようである。
天文年間(1532~55年)に畠山義堯が河内を支配するようになり、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構えた。
その後、細川高国を討った軍功を挙げていた三好元長と木沢長政の対立が、新たな戦乱を引き起こしていた。
対立の発端は、河内を巡る主権争い、守護代の木沢長政が守護の畠山義堯(義宣)から守護職を奪い獲る企てが発覚したことにある。
享禄四年(1531年)八月、怒った義堯は三好元長の一族三好勝宗(三好一秀)に頼んで飯盛山城を攻めたが、長政からの援軍要請を受けた細川晴元によって撤兵命令を下されたため、三好勝宗は一旦兵を収めた。
しかし翌五年五月、態勢を整えた畠山義堯と勝宗は飯盛山城を再攻し、三好元長にも増援を要請している。
そこで木沢長政も再び細川晴元に援軍を要請したが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除させるには至らなかった。
その後、天文十一年(1542年)三月、木沢長政は太平寺の戦いで父の仇であった三好長慶に討ち取られてしまう。
長政亡き後、城主になったのが交野城の城主であった安見宗房である。安見宗房は畠山高政の家臣であったが、自ら河内の守護代を名乗り主君の高政を紀伊に追放してしまう。
永禄二年(1559年)、長慶は高政を援けるべく兵をあげ、宗房は大和に敗走した。高政はこの三好軍の手際の良さを逆に驚き、河内への進出を阻止すべく、敵対した宗房を正式に守護代に任命、再び飯盛山城に配置した。
この処置に憤慨した三好長慶は高政の居城高屋城を攻囲、援軍に駆けつけた安見軍を寝屋川付近で撃退し、高政・宗房は共に堺へ敗走し、翌永禄三年(1560年)十一月十三日に飯盛山城に入城した。この時から長慶は飯盛山城を居城と定め大規模な改修作業を実施した。
翌年、畠山高政は根来衆を引き連れ反撃を試み、飯盛山城の支城となっていた三箇城を攻め落とした。
永禄五年(1562年)の久米田の戦いで長慶の弟実休を討ち取り、同年四月に飯盛山城への総攻撃を開始したが、背後から長慶の弟安宅冬康や松永久秀の援軍が襲いかかり、長慶も狭撃して畠山軍を撃退した(教興寺の戦い)。
長慶も飯盛山城、芥川山城、高屋城を拠点に畿内で勢力を拡大しようとした矢先に、永禄六年(1563年)八月に一人息子の三好義興が22歳で急死、ついで翌年、安宅冬康も流言によって自殺させると、長慶自身も病に取りつかれ同年七月二十四日、43歳で没した。御体塚曲輪跡には死後3年仮埋葬されていたと言われている。
その後三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治めていたようだが、織田信長により摂河平定が行われると三人衆も軍門に下り、飯盛山城は畠山秋高の所有となった。
遊佐信教の反乱によって畠山秋高が殺害されると、これに激怒した信長の攻撃を受けて信教は没落し(高屋城の戦い)、天正四年(1576年)に落城し、廃城となった。