此隅山城 (このすみやまじょう) (子盗城・此隅城) (国の史跡)
最寄地 兵庫県豊岡市出石町袴狭380-1 2017.5.5
此隅山城 (このすみやまじょう) (子盗城・此隅城) (国の史跡)
最寄地 兵庫県豊岡市出石町袴狭380-1 2017.5.5
登城ルート
城跡碑・登り口
北尾根の堀切
堀切・土橋
北西下段曲輪
北西上段曲輪
主郭下段の曲輪・主郭切岸
主郭・標柱
此隅山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高120m】
【感想】 有子山城の北約4km、「出石川防災センター」南の標高141mの山頂に主郭がある。
戦国時代の山城らしく、北西に曲輪群を階段状に配置し、竪堀、堀切を設け防御性を高めている。
【案内】 「出石川防災センター」(表記番地:併設いずし古代学習館)に駐車場がある[マップコード194 554 471*15]。
その南に登り口があり、獣除けフエンス扉が設けられ、城跡碑、説明案内板が建てられている(地図)。登ってゆくと尾根に堀切が2ヶ所あり、2番目の堀切左側斜面に竪堀が2、3条残っている。
広い曲輪が2ヶ所あり南東に険しい坂を登ると曲輪、主郭がある。主郭の切岸が良好に残っている。
平成八年(1996年)11月13日、有子山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定された。
【歴史】 応安五年(1372年)頃、此隅山に山名時義が築城し、以後山名氏の持城となった。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると、此隅山城には山名の各領国から計2万6,000騎の軍勢が集まり、山名持豊(宗全)は当城から京都へ出陣した。
但馬の守護所は平野部の九日市にあったが、守護代の垣屋氏に押された守護の山名氏は直割領で守りの堅い此隅山城に拠点を移し、山麓に館を設け守護所を移した。
山名祐豊は、垣屋氏・太田垣氏・八木氏らを制し此隅山城を戦国大名山名氏の居城として確立させたが、永禄十二年(1569年)、織田信長の家臣羽柴秀吉に攻められ落城した。
天正二年(1574年)山名祐豊は、より急峻な有子山城に居城を移し、城は廃城となった。
以下の8代が歴代城主を務めた。初代山名時義は父時氏と共に南朝から帰参した。2代時熙(時義の子)は足利義満から討伐を受けたが、復権した。
戦国時代に入り、3台持豊(山名宗全)は時熙の三男で応仁の乱の西軍の首領となった。
その後4代教豊(宗全の嫡男)、5代山名政豊(教豊の子)、6代山名致豊(政豊の次男)、7代山名誠豊(致豊の弟)、8代山名祐豊(致豊の次男)と続いた。