山下城 (やましたじょう) (獅子山城・龍尾城・一庫城・塩川城)
最寄地 兵庫県川西市下財町4−1 2019.4.14
山下城 (やましたじょう) (獅子山城・龍尾城・一庫城・塩川城)
最寄地 兵庫県川西市下財町4−1 2019.4.14
登城ルート
登り口・大手門跡・首供養地蔵
東二の段
主郭・土塁・城趾碑
主郭東の2重堀切(西側)
向山東の堀切
向山西の折れの空堀(南側)
山下城跡 城山(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【感想】 二山一城で、北側と西側に一庫大路次川が流れており、南側を初谷川が流れ一庫大路次川に合流している。
南の標高184mの城山の主郭から南西と南の尾根に夫々5、7段の郭があり、東側尾根に2重堀切とそれに続く竪堀が見事に残っている。
一方北の標高178mの向山に広い郭があり、東に堀切、西に横矢の掛かるクランクした空堀がよく残っている。
向山を含めると広大で堀切、空堀など見所は多い。
【案内】 国道173号線の信号交差点より右折、約130m東を左折し北に行くと川西市郷土館(表記番地)があり、駐車場が利用できる。居館跡と推定されている。
郷土館南東側から階段を降り、右(北)に約100m行くと、民家左に大手門跡の登り口がある[マップコード52 214 370*41](地図)。そこに首供養地蔵がある。
登ってゆくと間もなく左手に2段の平坦地があり、谷筋を登ると、「吉秀大神」の社がある。左手の尾根に西曲輪群が5段あるらしいが、こちらは登っていない。
右手に登り尾根先端に東曲輪群の七の段があり、愛宕神社が祀られている。
五の段の上に四、三の段があり、監視カメラのような三脚が多数立っており、通ると点滅し気味が悪かった。
右側を登ると2重堀切に向かう分岐があり、左に登ると二の段、主郭がある。主郭は南北に細長く、「獅子山ノ城趾」の石碑が建てられ、東側に土塁があり三角点が設置されている。
その東に2重堀切があり竪堀に続いている。
尾根を200m程東に行くと、堀切がある。尾根道をさらに400mほどゆくと、最高所に着き少しショートして大きく左に曲がり、三叉路を左に行く。最高所より尾根を約800m延々と下ってゆくと、土橋のある堀切に着く。
切岸が見え左側から登ってゆくと、50m四方ほどの向山の主郭がある(地図 標高:178m)。
主郭東に土塁があり、壊れた三角点がある。西側に土塁、空堀がよく残っている。
【歴史】 田中政一の著書『多田雪霜談考』によると山下城の築城について3説ある。
1.天禄年間(970~74年)に源満仲の婿、塩川仲義が新田城の支城として築城した。
2.南北朝時代に塩川仲章が築城した。
3.天正七年(1579年)四月二十日、塩川国満が織田信長から与えられた。
塩川家臣日記では[源頼仲の古城跡に塩川国満が改修した]と記載されている。
畿内で大騒乱となった享禄・天文の乱も、天文四年(1535年)に大坂本願寺法主証如と細川晴元が和睦して終結した。続いて中嶋城で挙兵した一向一揆も木沢長政が天文五年(1536年)七月に奇襲し、制圧した。
細川晴国も同年七月に隠れ家が見つけられ殺された。これにより細川晴元政権も畿内で安定するかに思えた。
天文十年(1541年)八月に細川晴元は三好政長、三好長慶、波多野秀忠らに多田一庫城にいる塩川政年の攻略を命じた。これは大物崩れで討死にした細川高国の妹が政年の妻であったため、高国の残党狩りをもくろんでいた三好軍は一庫城を包囲した。
これに反感を抱いた、政年の縁戚にあたる伊丹親興(伊丹城主)や三宅国村(三宅城主)で、一庫城攻撃の不当性を将軍足利義晴に直訴し、木沢長政に救援を依頼、親興自身も急遽援軍に向かった。その後、伊丹城に木沢、伊丹、三宅軍が集結し、その動きを察知した三好軍は一庫城の攻囲を解き、同年九月二十九日に越水城に退却した。
畿内は豊臣秀吉の天下となり、能勢頼次は豊臣軍の九州征伐の先鋒として天正十二年(1584年)六月に出発した後、塩川国満は積年の領土争いに決着をつけるべく、同年十月十四日、枳根之宮合戦に発展した。
まず能勢頼次の主要の城である地黄古城、田尻城をその日のうちに落城させたが、逆に十一月五日に三草山清山砦を守っていた塩川国良は能勢軍の反撃にあって討ち死にした。主が留守の能勢軍も必死の抵抗をみせたが、能勢軍は敗北した。知らせを聞いた頼次は十二月十日大坂城に帰着、秀吉に面会後、十三日に地黄城に帰城した。
この報告を聞いた秀吉は、勝手に戦を仕掛けた塩川国満に激怒し、池田輝政らに討伐を命じ十五日に山下城を取り囲んだ。
この時若干の戦闘はあったらしいが、秀吉の許しが難しいと悟った国満は山下城を開城し、切腹して果てた。この時の首が山下城の大手門に葬られ、山下城は廃城となった。