八橋城 (やばせじょう) (大江城)
所在地 鳥取県東伯郡琴浦町八橋 2018.8.10
八橋城 (やばせじょう) (大江城)
所在地 鳥取県東伯郡琴浦町八橋 2018.8.10
説明板
駅前より遠景
公園碑
東側の郭
稲荷神社
西側の郭・酒井片桐飛行殉難碑
八橋城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 JR山陰本線八橋駅の西側の比高10mほどの台地にあり、公園となっている。中央の最高所に稲荷神社が建てられ、南東側に土塁が残っている。
【案内】 国道9号線「八橋駅前」交差点より南に行ったJR山陰本線八橋駅の西側の台地にある[マップコード578 021 064*00]。
入口に城跡碑、説明板が建てられ、中央に稲荷神社が祀られ、東は公園となり南側に土塁が残っている。西側には「酒井片桐飛行殉難碑」が建てられている。南側は線路によって分断されている。
昭和四十九年(1974年)5月1日、琴浦町の史跡に指定された。
【構造】 「大手は東向き、本丸の高さ麓より26間、境地南北32間、東西23間、巡り87間あり云々」と記録に残る。
「酒井片桐飛行殉難碑」は、昭和七年(1932年)、朝日新聞社機が日満議定書調印のニュースを積んで、満州からの帰途、八橋沖に墜落した殉難の碑である。
また線路を挟んだ南にある「体玄寺」には津田家の墓碑11基がある。
【歴史】 戦国時代、東伯耆の要衝で、行松氏歴代の城であったが、尼子氏と毛利氏の争乱の舞台となった。
大永四年(1524年)、大永の五月崩れによって落城した。尼子領となり、吉田左京亮が居城し、伯耆西3郡を支配した。(ただし、現在ではこの説は否定されている。東伯耆地方への尼子氏の進出は天文年間以降と推定されている。)
その後、吉田左京亮は播磨国で毛利方の三村家親と戦って討死し、その子源四郎が城主となった。
永禄七年(1564年)、吉田勢は法勝寺(南部町)に進出してきた三村家親を討とうと進軍する。
永禄八年(1565年)、毛利方は香川光景の加勢を得て、八橋城を攻めた。城主源四郎は城兵200人と強行突破で包囲を破り、尼子方の拠点月山富田城へ落ち延びた。
その後、毛利方の武将杉原盛重が居城とした。
天正八年(1580年)四月二十四日、南条元続・元清兄弟が、2波にわたって八橋城を攻撃した。
天正九年(1581年)、杉原盛重病死し、二男杉原景盛が在城した。杉原景盛、兄元盛を謀殺する。
天正十年(1582年)、杉原景盛、吉川氏に攻められ戦死した。
豊臣氏と毛利氏との和睦成立後は、毛利氏の所有となり、南条領に毛利の軍事拠点が存在する特異な形となる。
天正十二年春、南条氏、八橋より赤崎原へ出陣した。この頃、八橋城を回復したと思われる。
慶長五年(1600年)、南条氏は滅亡。米子城の中村一忠領となり、一忠の叔父中村一栄(3万石)が居城とする。
慶長十四年(1609年)、中村一忠病死により、家断絶。美濃国今尾城より市橋長勝(矢橋藩2万3千石)が居城とする。
元和三年(1617年)、鳥取藩池田光政領となり、池田長明が居城した。
寛永九年(1632年)、鳥取藩池田光仲領となった。以後、八橋は家老・津田氏の自分手政治の地となり、陣屋が設けられ、明治まで続いた。