新宮城 (しんぐうじょう) (丹鶴城・沖見城) (国の史跡)
所在地 和歌山県新宮市新宮7690−5 2013.9.4
新宮城 (しんぐうじょう) (丹鶴城・沖見城) (国の史跡)
所在地 和歌山県新宮市新宮7690−5 2013.9.4
本丸南東側石垣
本丸南虎口
本丸虎口
本丸跡
鐘ノ丸北側石垣・虎口
水の手
新宮城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 熊野川河口南岸の小高い丹鶴山にある。紀勢本線のトンネルが南北に貫通しており、東半分は天理教南海大教会の敷地となっている。
表記番地の「いちよし証券環支店」の東30mからすぐ北に折れ、案内看板のある道を少し登ると若干の駐車スペースがある[マップコード246 224 102*42](地図)。
石段を登ると鐘ノ丸(地図)である。西に松ノ丸があり、そこより下っていくと熊野川に接した水ノ手の曲輪がある。
戻って鐘ノの丸東に虎口があり、登ると標高約40m余の本丸跡である。城郭の石垣の保存状態は良く、南に新宮市街、北には国道の新旧二枚の橋が架かる熊野川が眺望でき素晴らしい景観である。
平成十五年(2003年)8月27日、「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定された。
現在、本丸跡などが丹鶴城公園として整備されているが、新宮市では天守の再建も視野に入れた整備計画が進行中である。
【歴史】 天正年間(1573~92年)に、堀内氏によって築城が計画されたが、関ヶ原の戦いで豊臣方についたため工事は着手されなかった。
代わって、紀州藩主・浅野幸長(よしなが)の重臣・浅野忠吉が慶長六年(1601年)築城を開始した。
慶長二十年(1615年)の一国一城令を受けて、一旦廃城となるが、元和四年(1618年)、場所を熊野川の沿岸に移して再築に着手した。
翌、元和五年(1619年)、忠吉の子浅野忠長が備後三原城へ転封となり、徳川頼宣が紀州藩主として入国し、付家老・水野重仲が新宮城主となり、浅野忠吉の築城工事を継続し、寛永十年(1633年)2代城主水野重良の時、完成した。
以降、紀州藩新宮領支配の拠点として水野氏の居城となり明治維新まで続いた。明治六年(1873年)廃城令により、天守などの建物を払い下げ、取り壊された。
城跡は、明治以降長く民間の所有であったが、昭和五十年代半ばに、市有地となり丹鶴城公園として市民の憩いの場となっている。