鳥籠山城 (とこのやまじょう)
最寄地 広島県広島市安芸区畑賀2丁目25−32−2 2022.11.5
鳥籠山城 (とこのやまじょう)
最寄地 広島県広島市安芸区畑賀2丁目25−32−2 2022.11.5
登城ルート
登り口
主郭南の空堀
主郭
2郭・主郭切岸
主郭北の堀切
鳥籠山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【感想】 蓮華寺山より南に伸びた標高約87mの尾根先端に築かれている。
主郭は広く、南東下段に鬱蒼としているが2つの郭が配置され、西側にも空堀で隔てて墓地となった郭が残っている。
南には空堀が見られ、北側尾根に2重堀切がよく残っている。
【案内】 県道84号線より東に行った表記番地向かいに斜めに登る扉があり、給水タンク横に駐車スペースがある[マップコード22 201 388*07]。
擁壁のフエンスに沿って少し登り、左側の斜面を直登すると段郭があり空堀を挟んで広い主郭に着く。左側に墓地のある郭があり、主郭の南東に2郭、鉄塔の建つ3郭がある。また北側に2重堀切が見られる。
【歴史】 下野国阿曽沼城主・阿曽沼広綱の子親綱は承久三年(1221年)の承久の乱で戦功を挙げ、安芸国世能荒山荘の地頭職となった。元寇の前後に世能荒山荘へと下向し、鳥籠山城を築城したとされる。
阿曽沼氏は国人領主として勢力を拡大し、戦国時代には安芸国に勢力を扶植してきた尼子氏や大内氏に従属した。その後、大内氏から離反した大永七年(1527年)、大内氏の陶興房や毛利元就らの大軍に鳥籠山城を包囲された。この時は重臣の野村木工允を責任者として切腹させて降伏した。
天文二十年(1551年)大寧寺の変が起き、大内義隆が殺害されると、陶隆房と協調した毛利元就が鳥籠山城を攻撃した。阿曽沼氏は大内義隆派であった当主の阿曽沼隆郷の隠居を条件に降伏した。
その後、毛利氏に従うが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封されると阿曽沼氏もそれに従い、鳥籠山城は廃城となった。