新田城 (しんでんじょう) (多田城)
所在地 兵庫県川西市新田3丁目7 2019.4.14
新田城 (しんでんじょう) (多田城)
所在地 兵庫県川西市新田3丁目7 2019.4.14
塩川の橋から望む丘
推定地
北西の地蔵堂
新田城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 川西市新田3丁目7付近と推定されている。南側を猪名川が流れ、東側を塩川が流れ、南東で合流している。南東の塩川の橋から丘陵に建ち並ぶ住宅群が見えるが、遺構は完全に消滅している。推定地の北西に地蔵が祀られていた。
【案内】 川西市新田3丁目7番地一帯と推定されているが、建売住宅が建ち並び消滅している。
【歴史】 新田城の広い意味では、源満仲(多田満仲)と御家人が集落を作っていた地域が新田城と呼ばれていた。
軍事施設としての新田城は、新田3丁目付近にある丘陵部に築城されたと考えられている。この付近は、御家人中で有力者であった塩川氏が代々守り、本城としていた。
しかし、天正年間の塩川国満時代には山下城が本城と考えられて、新田城は山下城の支城として存在していたと考えられている。
有岡城の戦いでは多田神社をはじめ新田城や付近一帯も焼き討ちに遇っている。
荒木村重が当初織田信長に反抗するための備え城とした「多田城」とは、この新田城の可能性もあるが、『川西市史』によるとこの時期「山下城の塩川国満」とあるので山下城の可能性を指摘している。
天正六年(1578年)十月から十二月にかけて、この地域を焼き討ちにした武将は中村直勝で、川西市の多田神社や、満願寺、栄根寺なども焼き討ちにあった。
『明治八年新田村地寺図』によると新田城の中心地として「城山」、「城山ノ下」、「城ノ下」、「東堀」の字名があり、現在の場所でいうと新田3丁目付近に主郭があった。『ウイキペディア』