鳥取城 (とっとりじょう) (久松城) (国の史跡・日本100名城63)
所在地 鳥取県鳥取市東町2‐124 2013.10.14 2016.5.20
鳥取城 (とっとりじょう) (久松城) (国の史跡・日本100名城63)
所在地 鳥取県鳥取市東町2‐124 2013.10.14 2016.5.20
復元城門
三階櫓跡
天球丸石垣
出丸石垣
二の丸跡
本丸天守櫓台石垣
鳥取城 天球丸跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高220m】
【案内・感想】 「鳥取県立博物館」(表記番地)に駐車できる[マップコード125 613 532*60] 。水堀、石垣があり、城跡出入口に唱歌「ふるさと」の楽譜の碑が建てられている。
明治四十年(1907年)に扇御殿の跡地に建てられた洋館「仁風閣」(国の重要文化財)の前をゆくと、城門(西坂下門)が復元されている。
帯郭があり、その上が高石垣の二の丸跡で景観が素晴らしい。「三階櫓跡」の櫓台石垣が修復されており、そこからは鳥取の市街が展望できる。
東に行くと「菱櫓跡」で、その東の「天球丸」石垣が望める。南に三の丸、「三の丸太鼓御門櫓跡」がある。
鳥取城を2006年度から30年の歳月と51億2千万円をかけ、幕末期の姿へ復元計画があるという。
これによれば、まずは2015年度までに中之御門大手門登城ルート、追って御三階櫓等を復元する計画である。2014年6月、天球丸の巻石垣の石が抜き取られる事件が発生した。
二の丸の稲荷神社横より登ってゆくと、標高263m比高約210mの久松山に「山上の丸」(地図)本丸があり天守櫓台、池田長吉による車井戸が残っている。
東方に二の丸・三の丸と見なすことのできる2段の郭がある。本丸西方の一段下には出丸があり、高石垣が残っている。
久松山の背面、東方約1.3㎞を隔てて標高251m本陣山(地図)がある。久松山の搦手に相対し、山頂部を太閣ヶ平(たいこうがなる)と称し、削平された平地には、土塁をめぐらし、堀を設け、櫓跡の如き台地のある郭と馬場と称せられる郭などがある。
秀吉の本陣といわれるが、信長公記の記事によく合致し、鳥取城攻囲に関連あるものとして、また対城の一遺構とも見られ、価値ある遺跡である。
昭和三十二年(1957年)12月18日、国の史跡に指定され、昭和六十二年(1987年)8月10日「鳥取城跡附太閤ヶ平」として再指定された。 平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(63番)に選定された。
【歴史】 天文年間(1532~55年)因幡の守護である山名誠通に対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として築かれたと言われている。
武田高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ永禄年間(1558~70年)には鳥取城を拠点とした。
湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった武田高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し下剋上を果たした。
武田高信はその後も、山名豊数の弟で、主筋である山名豊国と対立し、天正元年(1573年)、武田高信を討つために山中鹿之助幸盛ら尼子残党と結んだ山名豊国の攻撃を受け、劣勢の武田高信は和議を結び開城し、まもなく山名豊国により謀殺された。
因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ山名豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となったが、翌年再度、尼子残党に攻められ降伏した。
天正三年(1575年)芸但和睦で毛利の勢力が鳥取に及ぶと、尼子残党は鳥取城を退き山名豊国が城主に落ち着く。
天正八年(1580年)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで三か月の籠城戦の末、九月山名豊国は和議により織田信長へ降伏、臣従した。
天正九年(1581年)二月、毛利氏重臣・吉川経家を城主に迎えた。
同年六月、秀吉の第二次鳥取城攻めが始まり、十月二十五日、吉川経家は自刃した。
代わって、浅井氏旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点となった。その後所領は継潤の子の宮部長房が受け継いだ。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属し、代わってその戦功により近江国水口から池田長吉が6万石で入り、近世城郭に改修した。
元和三年(1617年)、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5千石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。光政によって城下町の整備も行われたという。
その後再び、寛永九年、(1632年)備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えた。
分かっているだけで、山中鹿之助幸盛に二度、吉川元春に二度、豊臣秀吉に二度、と合計六度の降伏や力攻めによる落城があった。
明治六年(1873年)に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり第四軍管に属した。
明治九年(1876年)鳥取県が島根県に編入されると、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしとの観点より、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ、明治十年(1877年)より明治十二年(1879年)にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して破却された。
昭和十八年(1943年)の鳥取大地震で残っていた石垣の多くが崩壊した。