唐原山城 (とうばるさんじょう) (神籠石)(国の史跡)
最寄地 福岡県築上郡上毛町宇野1236 2015.5.13
唐原山城 (とうばるさんじょう) (神籠石)(国の史跡)
最寄地 福岡県築上郡上毛町宇野1236 2015.5.13
登城ルート(赤は第1水門/緑は第2水門/青は第3水門)
第1水門標識・遠景
第1水門
第2水門
第3水門
全体図
唐原山城 第1水門(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 築上東部火葬場(表記番地)の東、溜池横に「唐原山城跡第1水門」の標識と説明板が建てられている。[マップコード145 514 708*21]。
南約100mに第1水門がある。3つの水門の中で最も規模が大きく良く残っており、下部の四角の石が本来の石で、上の丸い石は後世に積まれた物である。
池の南の道路を東に約280m行き、農作業道を南に50m、湿地帯の東側の草地を100mほど行くと第2水門がある(地図)。道はなく草木、笹竹をかき分けて、ぬかるんでいるので足元に注意する必要があり、石は少なくどこかに運び去られたのだろうか。
東九州自動車道トンネルと溜池の間より、池の西側を、草木をかき分けて100mほど北に進むと第3水門がある(地図)。溜池堤防の道は民家に通じ獣除けフエンスに南京錠が掛けられ、敷地通過はできない。
平成十七年(2005年)3月2日、国の史跡に指定された。
【発掘調査】 唐原山城跡は「神籠石系山城」に分類され、東九州自動車道トンネル上の標高83.5mを最高地点(地図)とし3ヶ所の谷を取り込んで築造され、面積は25万㎡の広さがある。
これまでの発掘調査で城壁の一部である列石や北に開口する第1水門、東に開口する第3水門第、3水門の北西に隣接する丘陵裾から礎石建物跡が確認されている。
この山城で使用された列石の多くは、16世紀後半に行われた中津城築城の際、運び出され城の石垣に転用された。
【歴史】 660年に唐・新羅連合軍によって滅亡した百済は、倭国(日本)に援軍を要請し国の復興を目指した。
倭国は661年に百済へ5千人の軍隊を派遣、663年3月には第二次派遣軍(2万7千人)を新羅へ、同年8月には第三次派遣軍(1万人)を白村江へ派遣し、倭国と百済の連合軍は663年8月28日に白村江(現在の錦江周辺)で唐・新羅連合軍に大敗した。
この後、東アジアの緊張関係を背景に、倭国防衛のために西日本各地に築かれた城を古代山城といい、その内『日本書紀』や『続日本紀』などの文献に記載された山城は、「朝鮮式山城」と呼ばれている。
一方、文献に記載がない山城は、「神籠石系山城」と呼ばれる。神籠石系山城の多くは、山腹を列石で囲んだ状況から、霊域を示すものと考えられ「神籠石」と呼ばれたが、発掘調査の結果防衛施設であることが判明し、現在16の城が確認されている。