本山城 (もとやまじょう)
最寄地 高知県長岡郡本山町本山303 2014.9.14
本山城 (もとやまじょう)
最寄地 高知県長岡郡本山町本山303 2014.9.14
登城ルート(緑丸は土居跡)
土橋・堀切
虎口
本丸石垣
本丸
本山城跡碑
本山土居・上街公園
本山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 表記番地の旧警察署跡前に駐車し、南に約250m行くと十二所神社(本山町本山248)がある。
その手前より西へ入り口があり、野中兼山が造った用水に沿って約300m行き(地図)、墓地手前の用水を渡って沢沿いに登り、「城山の森案内図」のある三叉路を右に南西の山に300mほど登ると、標高371.5m比高約100mの本山城跡がある)。
城跡は二段に分れた曲輪、帯曲輪、一段低く石垣のある射的場からなり、石垣、堀切が残っている。
本山土居跡(本山町本山377 – 2)には、石垣が残り上街公園となっている(地図)。
【歴史】 城主本山氏の先祖は、清和源氏の流れをくむ吉良氏の傍流の八木伊与典とも平氏であるとも但馬国造八木氏であるとも伝わるが、正確なことは判っていない。
八木氏が地名にちなんで本山氏を名乗ったとされる。その子孫、本山茂宗は、応安三年 (1370年 ) に五橋荘内惣職という役をもらい土佐の土佐郡・吾川郡の二郡と高岡郡の東部、計五千貫という領地を獲得した。
その子が本山清茂 ( 梅慶 ) で全盛期を迎えた。勢力の拡大により拠点を本山城から朝倉城へと移し、本山城は清茂の子、本山茂辰に譲った。
天文二十四年 ( 1555年 ) 清茂の死後、茂辰は朝倉城に移ったが、永禄三年 ( 1560年 ) 茂辰の家臣が長宗我部氏の兵糧を盗んだために、長宗我部氏は本山城を攻めた。
茂辰の死後は、その甥の本山親茂が本山城の城主となった。長宗我部氏の勢力は増し、本山氏は太刀打ち出来るものではなかった。
本山氏は朝倉城を焼いて本山城へ退いたが、ある夜、旭城主森孝頼の攻撃を受けた。
本山城と旭城は宿敵関係にあり、旭城は本山城を落す時期を狙っていた。親茂は城を打って出ようとしたが、家臣に押しとどめられ開城し、瓜生野城に籠城したが、元亀年間(1570~73年)に本山氏は長宗我部氏の軍門に降った。そののち廃城となった。
天正十七年(1589年)本山土居に本山采女が居住していた。
慶長六年(1601年)山内一豊の土佐入国後、山内刑部(永原一照)が本山1300石を与えられ本山土居に住んだ。
その子但馬は私曲の罪により元和六年(1620年)知行を没収され、佐川の深尾家に預けられたため、土居はしばらく領主不在となった。
寛永七年(1630年)野中直継が本山土居に入り、嗣養子の土佐藩奉行職野中兼山がこれを継いだ。
寛文三年(1663年)兼山失脚後、山内下総、孕石頼母によって管理されたが、明治維新後すべての建物が壊された。