光明寺城 (こうみょうじじょう) (滝野城)
所在地 兵庫県加東市光明寺435 2017.12.16
光明寺城 (こうみょうじじょう) (滝野城)
所在地 兵庫県加東市光明寺435 2017.12.16
参道脇にある 阿閉左兵衛佐重民の墓
みはらし台
光明寺本堂
本堂裏の本陣跡碑
最高所
光明寺城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 古刹光明寺の境内で、遺構は見られないが本堂裏に、観応二年足利尊氏方と戦った足利直義方の本陣跡碑が建てられている。
また、大永六年に死去した滝野城主の墓がある(戦死か病死かは分からない)。
【案内】 県道349号線「光明寺」交差点より約1.3km北に行くと光明寺駐車場が用意されている[マップコード133 399 259*33]。
参道を150mほど行った右側に滝野城主「阿閉(あべ)左兵衛佐重民の墓」(大永六年二月十二日没)が祀られている。
多聞院、遍照院、大慈院を過ぎ仁王門の先に光明寺本堂がある。
本堂裏に「光明寺合戦本陣跡」の石碑が建てられている。尾根続きに西に行くと最高所には送電線鉄塔が建っている。
大慈院の南にみはらし台「カワラケ投げ所」がある。
【歴史】 推古天皇二年(594年)法道仙人開基と伝えられる五峰山光明寺は、現在ではわずかに4ヶ院であるが、文明年間(1469~87年)には24の院坊があった。築城時期や築城者は不明である。
観応二年(1351年)二月、足利直義(ただよし)方の石搭(せきとう)頼房、愛曽 (あそ)伊勢守が5千の兵と共に籠り、本陣を置いた。書写坂本へ追われていた足利尊氏が光明寺を包囲した。
尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山、赤松則祐は八幡山に陣を布いて光明寺の石塔軍と戦った。
最終的には勝敗付かず、足利尊氏は光明寺の包囲を解いて湊川へと軍勢を移した。
文明十七年(1485年)赤松政則が陣をおき、播磨へ侵攻した山名氏との間で合戦が行われた。
「滝野城主阿閉(あべ)左兵衛佐重民の墓」があり、大永六年(1526年)時点では滝野城は存在している。