山吹城 (やまぶきじょう) (国の史跡)
所在地 島根県大田市大森町イ818 2015.5.15
山吹城 (やまぶきじょう) (国の史跡)
所在地 島根県大田市大森町イ818 2015.5.15
登城ルート
登り口・標識
北側の階段
北郭・主郭切岸
主郭・城趾碑・土塁
南側の空堀
山吹城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高220m】
【案内・感想】 石見銀山公園観光案内所(表記番地)前に駐車場が用意されている[マップコード599 113 232*81] 。
案内所より、徒歩にて銀山街道を南西1.2㎞行った右側に登山口(地図)がある(山吹城跡1.1㎞の標識あり)。
崖崩れで通行禁止となっていたが、登って行くと、「大満寺跡」「休役所跡」があり、600m登ると「吉迫口」と呼ばれる尾根に出る。
そのまま下れば鞆ヶ浦方面に行く(石見銀山街道)。
左に木道、階段の道を500m登ると、3段の郭があり、説明板が建てられ、石垣が残っている。その上が腰郭で、虎口を登った最高所の標高414m(登山口より比高220m)要害山頂上に主郭跡があり、「山吹城趾」の石碑が建てられている。
主郭は東西約32m南北約52mの規模で東側に土塁が残っている。主郭の南には空堀が残り、その南に3段の郭がある。最南端の細長い郭の斜面に19本の連続竪堀がある(草ではっきりしないが)。
昭和四十四年(1969年)4月14日「石見銀山遺跡」として国の史跡に指定された。平成十九年(2007年)7月2日、石見銀山が世界遺産に登録されるにあたっては、構成資産の1つ「銀山柵内」に城跡が包括されている。
【歴史】 延慶二年(1309年)頃、石見銀山が発見され、その防衛用の城として、大内氏8代当主・弘幸によって築城されたとの伝承がある。
大内氏30代当主義興の頃(1494~1528年))、博多の商人・神谷寿貞によって開発され、灰吹法の導入によって銀山の採掘量が増大した。この頃に義興(又は、その子・義隆)によって築城されたとする場合もある。
享禄三年(1530年)に石見の国人領主・小笠原長隆が銀山を奪うが、3年後の天文二年(1533年)大内氏が奪回し、山吹城の防備を強化した。
天文六年(1537年)、出雲国の尼子経久が石見国に侵攻し、銀山を占領した。
天文八年(1539年)に大内氏が奪還したものの、その2年後の天文十年(1541年)に尼子氏が石見小笠原氏と結んで銀山を再占領し、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。
天文二十四年(1555年)に大内氏重臣陶晴賢を厳島の戦いで破った毛利元就が、大内氏に代わって銀山争奪戦に加わる。
厳島の戦いの時点では、刺賀長信(小笠原長雄の叔父)が山吹城を守っていたが、防長経略を進める毛利氏に臣従し、弘治二年(1556年)城と銀山は毛利氏の勢力下に入った。
同年又は永禄元年(1558年)、尼子晴久は山吹城を攻めて毛利軍を破り、刺賀長信を自害させて、石見銀山を所領とした(忍原崩れ)。
尼子氏は、戦勝に功のあった本城常光を城主とした。永禄二年(1559年)に毛利軍が山吹城奪還のために侵攻するも、本城常光は隆露坂の戦いにおいて撃退した。
しかし、雲芸和議を利用して毛利氏は石見に侵攻し、永禄五年(1562年)に城主・本城常光は降伏するが、元就は常光を暗殺した。
石見銀山と山吹城を手中に収めた元就は、山吹城に吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門を置いた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、石見銀山は江戸幕府領となり、大久保長安が山吹城に入った。
長安は、山吹城を改修して吹屋(銀精錬所)を置いたことが記録されているが、翌年に大森代官所に拠点を移したため、山吹城は廃城となった。1600年代前半に取り壊されたとされる。