上月城 (こうづきじょう)
最寄地 兵庫県佐用郡佐用町上月373 2014.5.2
上月城 (こうづきじょう)
最寄地 兵庫県佐用郡佐用町上月373 2014.5.2
登城ルート
尼子氏の碑
堀切
本丸跡・将士の碑
将士の碑
二の曲輪
上月城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高110m】
【案内・感想】 歴史資料館(表記番地)に駐車できる[マップコード233 504 848*31]。登り口(地図)付近に尼子氏の供養塔や山中鹿之助追頌之碑が建てられている。
標高190m、比高約110mの頂上・本丸東に堀切があり本丸に赤松氏将士の供養塔三基があり、土塁・石垣が残る。西に尾根に築かれた二の丸がある。
【歴史】 延元元年(1336年)、赤松氏の一族・上月影盛によって築かれた。
嘉吉元年(1441年)の「嘉吉の乱」により、赤松満祐に加担した上月景則やその甥・上月景家らが室町幕布軍の追討を受け、上月氏の嫡流は滅亡した。
以後、山名氏・赤松氏の攻防が繰り広げられ、弘治三年(1557年)、赤松氏から一門の赤松政元が、置塩城から入城した。
その次男・赤松政範は、佐用・赤穂・揖東・揖西・穴粟の五郡を領し、「西播磨殿」と呼ばれたが、天正五年(1577年)、織田信長の武将・羽柴秀吉の攻撃を受け、落城した。
その後は宇喜多直家に属していた上月景貞が入城するも、同じく秀吉の攻撃と配下の江原親次の謀反によって落城し、尼子勝久ら尼子党が入った。
翌天正六年(1578年)、毛利輝元率いる大軍に囲まれ、救援の羽柴秀吉も三木城攻略のため撤退、孤立した尼子勝久は毛利氏に降服し自害した。
この時、山中幸盛(鹿之介)も捕えられ、備後国鞆の浦に移送途中、備中国高梁で誅殺された。
その後、上月城は廃城となった。