高原城 (たかはるじょう) (松ヶ城)
最寄地 宮崎県西諸県郡高原町西麓3059 2019.3.6
高原城 (たかはるじょう) (松ヶ城)
最寄地 宮崎県西諸県郡高原町西麓3059 2019.3.6
登城ルート(緑線は車道)
城山墓地入口
主郭の墓地
墓地から見た空堀・2郭(右)
2郭北の空堀(奥が3郭)
3郭切岸
高原城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 高原町西麓の宮崎道の北側に築かれている。主郭は墓地となり、2郭は笹藪で踏み込めないが、箱型の空堀は深く、切岸は急で見応えがある。しかし空堀も夏は草ではっきりしないかもしれない。
【案内】 国道221号線が宮崎道を越えた先より右斜めに登った城山墓地入口に説明板が建てられている[マップコード227 346 681*28]。その先の城山墓地に駐車できる。
墓地が主郭で、虎口から右に民家との間の細道を行くと、主郭2郭間の空堀に着く。2郭は笹が密生し立ち入れない。空堀を伝って3郭にも行けるが、ここも鬱蒼としている。
【歴史】 永禄年間(1558~70年)に、島津氏家臣の梅北掃部が築城したとされる。
その後、伊東氏が掠め取り、天文二十二年(1553年)に北原氏の城となった。しかし、永禄二年(1559年)に北原氏の家督問題に付け込んだ伊東氏により、北原領が根こそぎ簒奪されると再び伊東氏の城となった。
その3年後、北原氏が北原兼親の元で再興されると、北原再興に協力した島津氏と北郷氏により奪い返され、北原家臣白坂下総介が城主を務めた。但し北原氏は、伊東氏が相良氏と組んだことで逼迫させられ、これにより後難を恐れた下総介が北原家を出奔、城は三度伊東氏の所有に帰した。
その際の城主は福永源左衛門であったが、木崎原の戦いで伊東氏が島津氏に敗北すると、守りを固めるために伊東勘解由(長倉祐政)を城主に据えた。
天正四年(1576年)八月十九日、島津義久が率いる3万の大軍勢の攻撃を受けた。二十一日、水に窮した城兵は矢文にて和議を申し入れた。
翌日交渉が行われ、二十三日に開城した。長倉祐政ら城兵170余人は野尻方面へ退却した。これにより、高崎・三山・内木場・岩牟礼・須木・須師原・奈崎などの伊東方の諸城も落城し、伊東氏の勢力は大きく衰退した。
高原城は再び島津氏の所有に帰し、上原尚近が城主に任命され、上原はそのまま高原地頭も任命された。
元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。