撫川城 (なつかわじょう) (県の史跡)
所在地 岡山県岡山市北区撫川423 2014.9.2
撫川城 (なつかわじょう) (県の史跡)
所在地 岡山県岡山市北区撫川423 2014.9.2
南側堀・土塁
撫川知行所総門
井戸・本丸
北側石垣・堀
撫川城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 撫川城址公園(表記番地)として整備され、三神社が建てられている。その前に井戸が残っている。南側の城址公園横に駐車した[マップコード19 792 600*42]。
曲輪は東西77m南北57mの長方形であり、撫川知行所総門が移築され、その横に「撫川城址公園」の石碑が建てられている。土塁が残り巾15mの水堀が一周にわたり囲み、西から北に高さ4mの高石垣が残っている。
東に庭瀬城があり、撫川城とは堀を挟んで500m(歩行距離)ほどしか離れていない。
昭和三十二年(1957年)5月13日、岡山県指定史跡(第一号)指定された。
【歴史】 永禄二年(1559年)備中成羽城主の三村家親が備前国の宇喜多直家の侵攻に備える為、築かせたと伝えられる。
天正三年(1575年)三村氏が、毛利氏に滅ぼされてからは毛利氏の出城となり、配下の井上有景が、守備した。
天正十年(1582年)羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・松島城・庭瀬城・撫川城)」の一つとなり、城主の井上有景が八百余人を率い守備した。
この際、位置的に孤立した場所にあった為、吉川元春、小早川隆景に早々に撤退するように下命されていたが、有景はその命令に背き、羽柴軍との間で激戦が交わされた。
その際に、井上有景の軍勢は羽柴軍に敗れ、この地は宇喜多氏の領有となり、しばらくの間、当城は廃城となった。
延宝七年(1679年) 庭瀬藩4代藩主 戸川安風が、早世した事により 弟の戸川達富(みちとみ)が名跡を継ぎ、5千石を知行した。
知行所は庭瀬城本丸と二の丸に設けた。撫川城と庭瀬城の呼び名は分けられているが元々一体の城であった。