鞠智城 (きくちじょう/くくちのき) (古代山城)
所在地 熊本県山鹿市菊鹿町米原443‐1 2013.5.31 2018.5.4
鞠智城 (きくちじょう/くくちのき) (古代山城)
所在地 熊本県山鹿市菊鹿町米原443‐1 2013.5.31 2018.5.4
登城ルート(緑線は車道)
米倉・八角形鼓楼
兵舎復元建物
西側堀・橋
西側堀(横から)
池の門跡・礎石
南側土塁線
鞠智城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 鞠智城物産館「長者館」・「歴史公園鞠智城・温故創生館」(表記番地)が建てられ、駐車場が用意されている[マップコード175 289 747*64]。
朝鮮様式の三重八角形鼓楼(平成十一年復元)や校倉造の米倉・板倉(武器庫)・兵舎(平成九年復元)や建物礎石が平面復元され、「温故創生之碑」の群像があり、古代ロマンの漂う公園となっている。
また、展望休憩所の西に橋が架けられた堀切があり、南の谷に「池の門」「南側土塁線」「堀切門」「深迫門」などの発掘遺構が見られ、柱穴のある礎石が展示されている。
古代山城の一つで、平成十六年(2006年)2月27日、国の史跡に指定された。
【歴史】 天智天皇二年(663年)白村江の戦いにおいて、倭軍が唐・新羅の連合軍に敗れ、その来寇に備える軍事拠点として築城されたとされる(高安城・屋嶋城・大野城・基肄城・金田城・鞠智城)。
古代史の資料『立国史』の記述や百済系瓦の出土例などから、鞠智城は百済亡命貴族の指導で築城されたと考えられており、遺跡からは百済貴族が持ち込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。
大宰府管轄下にあった六城の一つで、大野城・基肄城(きいじょう)の兵站基地として有事に備えた城と考えられている。
『続日本紀』には、文武天皇二年(698年)(国が)太宰府に命じて、大野城・基肄城・鞠智城の三城を修理させたと記されている。『文徳実録』には、天安二年(858年)二月、六月菊池城院の兵庫の鼓が独りでに鳴った。六月菊池城の不動倉が、11棟焼けた、と記されている。
『三代実録』には、貞観十七年(875年)カラスの群れが菊池郡倉舎の葺草をかみ抜いた、元慶三年(879年)菊池城院の兵庫の鼓が独りでに鳴った、と記されている。
城の面積は内城55ha、外縁地区65haに及ぶ。昭和三十四年(1959年)に「(伝)鞠智城跡」として県指定遺跡に指定された。
【発掘調査】 昭和四十二年(1967年)より発掘調査が行われ、当時としては珍しい八角形建物(韓国の二聖山城跡に類似の遺構がある)をはじめ72棟の建物基礎が現在までに確認されている。