岩門城 (いわとじょう) (龍神山城)
最寄地 福岡県筑紫郡那珂川市大字上梶原529 2020.9.19
岩門城 (いわとじょう) (龍神山城)
最寄地 福岡県筑紫郡那珂川市大字上梶原529 2020.9.19
登城ルート(緑線は車道)
登り口の少弐景資の像
2重堀切
3郭(続き).2郭切岸
2郭
主郭・三角点
少弐景資の墓
岩門城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【感想】 那珂川市山田と上梶原の境に位置する標高195.2mの城山に築かれている。
南北に4つの主要郭から構成され、大堀切や浅いが2重堀切が良く残っている。
整備されていると思われ薮は見られず、標識など各所に建てられ安心して巡れる。北郭からは眼下に福岡市街や遠く博多湾を望むことができる。
【案内】 県道575号線より「那珂川市葬祭場」(表記番地)へ向かい、約1.3km行くと道路左側を下りたところに見学者駐車場が用意されている[マップコード419 247 000*70]。
南へ100mほど行った右側に少弐景資の像、説明案内板が建てられている。
階段を登り尾根を北に歩くと、3郭南の浅い2重堀切に着く。その上部に細長い3郭があり、2m程高く2郭がある。その先に大堀切があり主郭がある。その下段に北郭がある。
南西麓の教会(那珂川市大字山田480)[マップコード419 215 867*72]より狭い道を約60m南に行った右に少弐景資の墓が祀られている(地図)。
【歴史】 天慶四年(941年)海賊・藤原純友の討伐に功があった大蔵春実の孫・種光は岩門縣を賜り、築城を始め、延久五年(1073年)種資のとき岩門城が完成した。
種資の4代の孫・原田種直は平清盛の信頼を得て平家軍として活躍し、治承五年(1181年)には平家の推挙により太宰少弐に任じられ、安徳台の館に移り住んだ(地図)。
寿永二年(1183年)平清盛没後、木曽義仲の進攻を恐れ「都落ち」された安徳天皇一行は、鎮西に下った。この時、原田種直は安徳台の館を仮の御所とした。
九州源氏方の追撃が迫り、安徳天皇一行は、山鹿(芦屋町)・門司・屋島へと移り、平家軍は一時勢力を盛り返すが、一の谷や屋島の戦いで寿永四年(1185年)三月二十四日、壇ノ浦で敗れ滅んだ。
源範頼は、九州平家軍を追討し種直を芦屋、岩門城で破り、種直は一族の多くを失い鎌倉に幽閉され、そのあとに武藤資頼が入り太宰府権少弐に任じられ、後に姓を職名の少弐氏に改めた。
文永十一年(1274年)の文永の役では資頼の孫・景資が岩門城から出陣し、九州武士団を指揮して戦い、蒙古の大将・劉復亨(りゅうふくこう)を射落とした。
弘安四年(1281年)の弘安の役後、幕府の内菅領・平頼綱と御家人・安達泰盛との間で弘安八年(1285年)に霜月騒動が起こり、泰盛らは討伐され、九州への飛び火を恐れた幕府は、少弐景資を急襲し討ち取った。しかし、九年後平頼綱は、執権北条貞時によって討たれ、泰盛、景資の名誉は回復された。
岩門城には少弐氏が在城したが、建徳二年(1371年)には今川了俊が九州探題として下向し、応永三年(1396年)周防の大内氏を後ろ盾とした渋川満頼が九州探題となり、大内氏が岩門城を支配し、大内氏没落後は毛利氏が進出した。
永禄十二年(1569年)岩門で大友軍と毛利軍の合戦が行われ、以降大友氏が支配した。
天正六年(1578年)肥前の龍造寺隆信が那珂川域に進出し大友軍との間で戦いが続き、肥前の筑紫広門も一ノ岳城に舎弟の龍造寺信国を受け入れ、大友軍の鷲ヶ嶽城を攻めた。
翌年大友宗麟は、竹田城の志賀道輝を岩門城に在城させ、龍造寺と呼応して攻める秋月種実を追討させた。
天正八年(1580年)頃には勝尾城主筑紫氏が岩門城に城番を置いた。
天正十四年(1586年)島津氏が侵攻して現人神社が焼かれたが、豊臣秀吉の九州征伐で岩門城は廃城となった。『現地説明板』より。