松山城 (まつやまじょう)
所在地 鹿児島県志布志市松山町新橋 2014.9.10
松山城 (まつやまじょう)
所在地 鹿児島県志布志市松山町新橋 2014.9.10
説明板
二の丸跡
神州不滅の碑・展望塔
堀切
東の郭・護国神社
本丸があった野球場・体育館
松山城 二の丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道110号線の「馬場交差点」より北に広域農道を300mほど行き、東に「城山公園」に行く道の途中に入口がある[マップコード238 875 001*52]。車道が頂上まで付けられ、説明看板がある。
東に堀切があり、松山城二の丸跡の東側台地に護国神社が祀られ、堀切の西側台地に「神州不滅」の石碑及び展望塔が建てられている。
松山城は本丸、二の丸、五兵衛城、八幡城の四つに分かれていたが、現在そのまま残っているのは、二の丸部分だけである。
【歴史】 文治四年(1188年)平清盛の弟頼盛の孫・隠岐守重頼が松山に来て松山城を築いた記録が残る。四年後の建久三年(1192年)には源頼朝が鎌倉幕府を開いた。
城を築いた重頼がいつ頃まで松山を治めたかははっきりしないが、あまり長くはなかったと云われている。
その後、戦国時代になると島津氏や肝付氏などの勢力争いの為、戦乱の舞台となり、何度か落城した。
最終的には島津氏の直轄地となり、島津家の家臣が地頭となり松山を治めた。