投稿日: Sep 11, 2015 12:46:2 AM
「せたがや音楽プロジェクト」が9月19日(土)に、戦後70年の節目に戦中戦後の放送禁止歌をテーマにしたコンサート「戦後70年 音楽は自由をめざす」を開催するそうだ。関心があるが、とはいっても私には「イムジン河」くらいしか思い出せない。これは京都の朝鮮中高級学校で歌われていたものを聴いた人が日本語をつけて、アマチュア時代のフォーククルセーダースに教えて、持ち歌としていたものである。彼らは「帰ってきたヨッパライ」の次作として「イムジン河」を出したが、初期ロットが市場に出た後でレコード会社が発売を中止し、多くの放送局も放送自粛してしまう。
この背景に何があったのかはっきりしないが、韓国は北朝鮮の歌がヒットするのを嫌ったであろうし、北朝鮮は日本で勝手に歌詞が変えられて政治色がなくなったのが不満だったかもしれない。しかし歌にイチャモンをつけるのは筋違いであって、本当ならそれぞれが歌とは違うところで主張しあえばよい。
歌は思いを自由に表現できるものだが、レコードという商品の形をとると、横からいろいろな力が働いて、発売できないか、あるいは本人の意図とは異なるものとなってしまうのだろう。
アメリカでは白人・黒人を問わず大統領に手紙を書く歌というのが伝統的にある。これは放送禁止になりやすい。しかし放送禁止になってもジュークボックスは設置する店が中のレコードを入れ替えられるので、全米とかある特定地域のジュークボックス網では聴かれているということがある。
日本では電波放送では自粛されても、リクエストベースの有線放送では掛かることがあるのと似ている。こういうリクエストベースの音楽メディアは重要で、ネットではダウンロードの仕組みはできても、ジュークボックスや有線放送のように音楽を共有するものではないから、自分以外が何を聴いているのかは分からない。
つまりネット音楽はニコ動などは一部でできたものの、音楽の共有体験が少なかった。これは盛り上がりのためのベースであって、ヒットのきっかけを作るものであって、そこにはアマもプロもない。過去に河内音頭のことを何回か書いたが、音楽メディアの目指すひとつの方向として、記事『フラットな関係』に書いたような、会社に縛られない河原乞食とか吟遊詩人の復活も有り得るのではないだろうか。