投稿日: Feb 20, 2016 1:13:55 AM
本が好きな人は身の回りに多くいるし、私も毎日何らかの本には目を通す。しかし本を買うことは1年に1回くらいしかなくなってしまった。この年になると人生を通じて「積ん読」が山のようになっているので、それを消化するのが第1であるからだ。それだけでは変化が無くてつまらなくなってしまうのだが、近年「積ん読」に加えて遺品整理というのが加わっている。これは知人の遺品のうち、遺族が「これ小笠原さんにいいんじゃない?」ということで本が回ってくるのである。それらを見ていると故人にもいろいろ「積ん読」があったのだなあと思う。
故人の遺族にとってみれば本を廃棄処分するよりも、興味を持っていそうな人に分けた方がよいという考えなのだろうが、「積ん読」が社会を巡るようになっている。これは個人なり遺族のフィルターを通して、捨ててしまうには忍びないと判断された本であり、十羽一絡げでBookOffにブチ込まれた本とはちょっと違う。
昔は個人が蔵書印というのを使って、身元に置いておく本を区別していたし、そういう区分があると遺族も知人も本を活かしやすくなるだろう。いずれにせよ本は個人の所有というところから解き放たれて、ミーム論的に自分に相応しい読み手の間を渡り歩くようになるのかもしれない。
ウチのヨメは私以上に本をよく読む人なのだが、やはり本を買うことは1年に1回あるかないかになってしまって、常時図書館を使用している。これは出版業にとっていいことなのか悪いことなのかという議論にしばしばなるのだが、世界的に見ると図書館の数が多ければ問題ないことになる。
つまり何らかの価値のある図書は家に「積ん読」よりはシェアされるべきものだという立脚点で、社会的な読書環境を充実されるための出版産業ビジョンというのがあってもいいのだろう。
私の通っている教会にもいくつかの本棚で構成される書架があるのだが、管理がされていないので、セット本に欠番がでてしまったり、誰かが勝手に本を持ってきてしまったりする。結局図書室レベルでは管理をするよい方法がなく活用度がわからないので、図書購入の予算もとれなくなっている気がする。
今日では購入の際の会計処理とICタグとの組み合わせで基本的な管理はできるはずだ。ただし何度もいうようにこんなことをしてもすぐに出版売り上げにはつながらないので、出版界からの動きは起こらないだろう。でもきっと誰かが会社などで購入した図書履歴をスマホでも検索できるようなものは作る時代がくるだろう。
読書と出版産業は関連しない。いままでの読書の研究は、購買者視点に偏り過ぎていたのではないかという気がする。ミーム論的な視点もあっていいのではないか。
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