投稿日: May 02, 2013 1:47:16 AM
担い手はどこから出てくるかと思う方へ
ボブスタイン健在ぶりを『本の未来とは社会の未来である』で知ってうれしかった。ボブスタインにとって近代知を超えるものがデジタルメディアにあるわけだが、それは架空の未来話ではなく、知識であればWikipediaの共同編集とか、エンタメならオンラインゲームのように、すでに人々の日常世界に現われてガンガン使われている点が、ボブスタインを再び元気付けてコラボ型メディアのインスピレーションを与えているともいえよう。
果たしてこれらがビジネスモデルになりえるのか?という点ではあまり短絡的な考えはしたくはない。つまりすぐに効力を発する新しいメディアが出てくるとも思えない。それはこういったコラボ的なものは、現にコラボがうまくいってはいない既存の組織や既存のビジネスプロセスには当てはめるのが難しいと思うからである。松岡正剛の編集の学校を企業や自治体に植えつけるのはなかなか大変であったようだが、それは体育の苦手な生徒を集めてスポーツのチームを作るような、指向していないことをやらせるという矛盾を抱えているからだ。
だからこういったコラボ型メディアは無理矢理使わせるよりも、自然に登場すると考えられる。その萌芽葉はWikipediaとかオンラインゲーム以外にもいろんなところに見られる。災害時のクラウドソーシングについては『もうひとつのクラウドソーシング』に書いたが、遡ると2001.9.11の頃にすでにアメリカのニュースサイトはコメント欄があって、そこに膨大な書き込みがされたことにもみられた。
例えば報道が亡くなった方の遺族のインタビューを小さな記事として掲載すると、遺族本人がさらに書き加え、それに対していろいろなコメントが増えていくのだが、単に慰める云々ではなく、アメリカ社会の問題とか、中東問題、生死問題とかいろんな考察が付け加えられえていく。その量は元の記事の何十倍にもなり、人々は元記事は見出し程度にしか考えていないで、そこで交わされているテーマに引き込まれていく。
イスラエルとアラブの敵対関係というのは図式的に考えてしまうが、当事者が出てきて話すと、また違う展開になる。日本で「朝鮮人は帰れ」とデモで叫ぶ人はいるが、朝鮮人と1:1で会って「あなたはなぜ帰らないのか」という会話はしてはいないように、既存メディアとか集団行動と、人のナマのコミュニケーションは異なるもので、9.11の場合はネットのよって生活者のナマの意見が共有できた。
おそらく上記のニュースとコメントをまとめたものは、改めて記事にされるとか、本を書いた人もいるのであろう。しかし後に本を読んで考察するのと、その場で受けるインスピレーションは異なるだろう。ボブスタイン流に考えると、Web記事とコメントという形では時間とともに姿を消してしまうものであるのを、何らかのスタイルにして後の世代でもアクセス可能にするとか、それらに他の情報を関連付けるとか、そういった情報の集合を見渡せる仕掛けとか、要するにナマ情報で相互作用のあるものが、既存メディアのようなマトメや論評とは別に残るようになろうとしているといえるだろう。
これらのきっかけになる要素は今のWebに多くあるので、Wikipediaから始まりtwitterやfacebookが出てきたように、まだまだいろんなイノベーションが起こるはずである。