投稿日: Jan 30, 2013 1:46:26 AM
自分の資産はなにかと思う方へ
映画監督はよく作品を作ったことに対して「問題を提起」という言い方をして、メッセージを発するという一方的な姿勢よりは、見る人を巻き込んでいくような表現をする。それに対して書籍は「知」ということばが好きで、どちらかというと上から目線のメディアのように思える。果たして両者に本質的な違いがあるのだろうか? 確かに教育映画というのは産業としては育ちにくかった分野であって、本は学習とか実用書など勉強の道具という面が強い。こういう社会的な立場からそれに関わる人の意識というのも変わってくるのかも知れない。
しかしコンテンツとメディアがセットであった時代ではなくなると、どういうことになるのだろうか?つまり映画はフィルムに作って映画館に出かけて鑑賞するという人よりも、電子メディアで見る人の方が多くなってしまったわけだし、それもいつでもどこでも観れる方向である。映画を作る能力が活かせるところは増えるはずだ。
「知」の道具という点では、まず何かを学ぼうとすると本屋に出かけて、その分類された棚の前にいって、本をパラパラ見ているうちに、その分野がどれほど大きいか深いか、自分のスキルレベルからすると、とりあえずどこからはじめるかが、なんとなく分かってきたものだ。でもそれは今はWebのブラウザでできてしまうのである。こういうネット上の「下見」につながるものとしてeBookがあるだろう。
コンテンツが変わらないにしても、その使い方は情報伝達の多様化によって変化する。だからコンテンツとメディアをセットにして、それを専用の流通システムに流していた従来のやり方が一度解体されて、何らかの異なる体系に組み替えられようとしている。だからコンテンツビジネスの先を考えるには、自分で自分のビジネスモデルを解体すると、何が自分のものとして残って、その有用性はユビキタスな情報環境の中でどうなるか、というところからはじめなければならない。
映画監督の問題提起的表現力は報道とかジャーナリズムに近いのかもしれない。これは報道やジャーナリズムが映画監督的な人と組むと良いのかもしれないと思わされる。つまりTVでもドキュメンタリーのように記録にもなるコンテンツを積み重ねることは重要だろう。
書籍の実用書などは、料理本に対するCookPadのように分解されつつある。体の具合が悪くなったときにはネットで検索をする人は多いだろう。自分が男なら女性特有の医学知識は不要なわけで、また年齢層に応じた情報だけ必要なのだから、書籍のようにいろいろ詰め込んでブ厚くなっているよりは、Webとか小冊子的eBookの方がよいはずである。だからそのような売りかたに合わせなければならない。
以前に料理本のカメラマンと話していて、出版社の注文は料理をおいしそうに撮影することであったと聞いて、それはちょっと違うのではないかと思った。例えば素材の見分け方とか、失敗例とか、視覚的に伝えるべき情報は他にもあるはずである。つまり書籍の原稿だけがコンテンツではなく、レシピの背景や周辺にある情報も書籍の企画には必要なはずで、それはは著者にはあっても出版社には蓄積されていないのかもしれないと思った。これは出版がメディアの完成形から発想しているからで、だから今までの意識を一度解体しないと、バラバラのコンテンツをデジタルメディアが組み合わせて多様な伝達をする時代にはついていけなくなる。
紙の本をそのまま電子書籍にしている時代は、いずれ乗り越えられるのだから。