投稿日: Apr 01, 2013 12:57:42 AM
なぜ日本のデジタル教科書は進まないかと思う方へ
学習教材をデジタルにしてしまうと、教育が損なわれるのではないか、という議論が続いているように思う。多くの日本の議論は二者択一の対立になってしまって、かみ合わないことが多いが、この件も同じで、教材をデジタルにすると子供は従来のアナログ教材が使えなくなってしまうかのような、極端な前提でのメリット・デメリットが議論される。当然そのようなことにはならないわけで、最初は教室内のメイン教材の中にデジタルを採り入れるかどうかであって、その利用結果を見て、先の進め方を検討するのだろうから、その第一歩のために究極の姿とか All or nothing の話になってしまっては、関係者のアタマが回転していないといえる。
むしろ現在の黒板への板書が有効に働いているのかどうかというのが疑問である。先生の方は重要なことを黒板に書き、生徒はそれをノートに写し取るという作業をしていると、教育・勉強をした気がするという効用があるのだろう。黒板やノートの存在はただ話しを聞くとかやってみることに比べて安心感を与える儀式といえる。しかしいくらきれいにノートをとったからといって、どれだけ理解しているかはわからないのである。
音読というのも効用以外にも儀式的な意味あいがある。昔は意味が分からない子供にでも音読を繰り返させる古典の世界があった。これは知識の絶対量が少なかった時代のもので、そもそも紙など無いオーラルトラディションの延長であると思う。しかし今の義務教育で必要な情報量を音読の繰り返しで覚えることをしていたら、人間は何歳になってしまうのだろう。
要するに、子供に教えるとか身につけさせる、また考えさせるべき内容ごとに教え方は異なるわけであるし、そこに今までの紙や板書よりも時間効率の高い方法があるならば生徒も先生も好都合だ、という双方メリットのあるところを探すのが最初の段階で、その程度のことが何年もの議論を必要とする訳が分からない。むしろ従来の教育効果の不透明さが子供に無駄な負担を強いているところに目を向けるべきだ。
実際には教材をデジタルにしたからといって、一挙に学習成果が進むものがあるとは思えないのだが、板書のノートとりの問題を見直すならば、この方法は進度の遅い子も早い子も一律に時間をかけるので、遅い子には不十分で、早い子には時間を費やしすぎてしまう。こういったギャップは仕方ないのだが、デジタルのワークブックで自動採点することで、生徒の現状にパーソナライズした学習を増やすことができる。
これを授業中に行うのか、あるいは授業に個人学習やグループ学習を採り入れて、その中で行うのか、宿題のように家で行うのか、塾や通信教育で行うのかという実施方法の多用性が検討されないと、 All or nothing の話になってしまう。
一般的にいって今の日本の子供の学習は、学校と通信教育と塾の3つに分断されていて、それぞれがうまくかみ合っているのかどうかは把握しづらい。学校での日常の宿題やミニテストがデータ化されたならば、それを補完する形で通信教育や塾でのワークを組み合わせることができるだろう。
デジタルの視聴覚教育で面白おかしくするという考えもあるだろうが、これも効果測定ができないならば、過去の視聴覚教育と同じである。デジタル教科書を教務の視点から客観的に考えてみることが必要だろう。