投稿日: Aug 14, 2013 1:15:48 AM
夏休みに感性を高める
先日かたづけをしていた際に、晩年一人暮らしをしていた母の遺品に目が止まった。母は不要になった家電品を廃棄する際に、電源コードを外して、延長コードやテーブルタップにして、再利用していたと考えられる。こういうものがいくつもあった。私が子供の頃に母がこのような再利用をいていたかどうかは覚えていない。
阪神大震災で大阪の実家が傷んで、その補修をしながら一人暮らしをしていたのだが、高齢で健康の不安もあるため、東京の私の近所にマンションを借りて住むようになって、数年して脳出血で亡くなった。その間は頻繁に行き来はしていたのだが、日常生活の細かいところは知らなかった。遺品にはちょっとした大工道具セットもあって、電動ドライバ・ドリルもあった。日常生活に必要なものは買えば済む時代なのだが、「自分で出来ることはする」ということだったのだろう。
世の中の年金暮らしの高齢者にはヒマを持て余している人もいるかもしれない。公園やマクドナルドなどにも長時間居る姿をみかける。母はヒマというのがない生活をしていた。母は別に大工仕事が好きなわけではなかったろうが、棚をとりつけたり、モノを吊るしたり、というようなことを自由にしたかったのだろう。60過ぎてから一眼レフをかついで旅行に行き、作品を雑誌に投稿し、70過ぎてからパソコン・インターネットを覚え、知人・友人が多く、いつも何か新しいネタを仕入れて取り組んでいた。
こういった生活をする基盤は、戦中・戦後のモノの無い時代を生きてきたことと関係すると思う。モノが無いから自分で工夫しなければならない。娯楽も無いから身近に出来ることを趣味として持つ。古来から日本人は園芸とかに熱心で、それが絵画や写真の趣味にもつながっていると思う。つまり誰かが便利なものを提供してくれなくても、娯楽番組を作ってくれなくても、人間には必要なことをやり遂げていく能力が元々備わっているのだろう。おそらく子供の時代のかなり原始的な経験を経て感性も開けるのだろうと私は考える。高齢者になって社会との接触が減った際に、生活に充実感があるか空疎に感じるかという違いは、その人の持っている感性の差のように思える。
私は教会の日曜学校で小学校低学年くらいの子供に図工をさせることをやってきたが、やらせると結構何でもできて感心することが多かった。しかしこういった人間の資質が今日の日本の環境では伸びないようにしてしまっているのではないかと思う。それは親や社会が子供の成長に先回りしていろいろなものを与え過ぎているからである。例えばキャラ弁といいうようなものでは親と子の立場が逆転しているように思える。
昔は親が「食べ物で遊ぶな!」といっても、子供の方が自発的に食材をオモチャに見立てることはあったのだろうが、キャラ弁では親が食べ物で遊ぶことを奨励していて、それを超えて子供が発想する余地を狭めているのではないかと思う。
一方で子供には情操教育も熱心に行われている。感性を外から与えるというのも、ある一面では役立つとは思うが、その前に自分から面白いものを見つけるという経験はさせたほうがよい。夏休み行われるサバイバル教室のような方が感性を刺激するのではないだろうか。今の子供たちが「持ち過ぎ」て不幸な人生にならないようにしたいものである。