投稿日: Aug 16, 2014 12:50:17 AM
コミケというのは凄いものである。そこにある内容が文化的にどうかということは別にして、コミケというイベントも文化であると考えると、いろいろ示唆的である。素人の作品とはいっても、やはり2次創作的なものが主流で、商業的に堂々と世の中に出すことができない事情があるのだが、コミケの中だけの広報力だけでもサイドビジネスが成立していたり、プロになった後でもコミケに貢献しようとする漫画家がいるとか、今の日本で商業的にこのような仕組みを作り出そうとしても、電通も博報堂もできないだろう。他のマスコミも同様に真似できないだろう。
1日当たりのコミケの動員力はおそらく日本一で、世界でみても1日に10数万人が詣でるというのはメッカの巡礼に次ぐ規模だそうだ。しかもその運営をアマチュアがボランティアで行っている。だから商業出版とかが割り込んでタイアップしたいと思っても、みな同じ場所とりの抽選という仕組みに押し込められてしまって、意のままにはいかない。これが商業的なイベントであったなら、カネのあるスポンサーの意向は何らかの方法で反映してしまって、ビジネスのルールがコミケにも押し寄せてきて、独自性というのは薄められてしまうだろう。
こういう商業主義に対する抵抗精神がコミケのボランティア運営を支えているのだと思う。コミケの内容はサブカルなので文化的に取るに足りないと考えてきた文化人も多い。またマスコミの取り上げ方でも人数しか問題にされないが、もしコミケの運営力が日本の社会のあちこちに適応されたならば、自治体などで赤字運営で行き詰まっている事業も、次々に解決していくかもしれない。
というのはこのコミケの運営は昔からコメ作りをする農村集団の自律性に似ているのではないかと思うからだ。八郎潟干拓事業とコメの減反政策という矛盾から大潟村の農民は自主流通米を自分たちで販売することを行った。ウチも秋田こまちはよく買うようにしている。今日の自主流通米が自由に買える状況は、この大潟村の農民の努力によって作り出されたものである。
このアナロジーでいくと、大潟村vs農協・農政 は コミケvs商業出版 ということになり、もしコミケの人たちがアグレッシブになれば、出版ビジネスに関する様々な因習とは別の自主流通が育つ可能性はある。実際にはコミケでサイドビジネスをするのと、命を懸けてコメ作りをするのではテンションが段違いだから、コミケが出版革命の拠点のようにはならないかもしれないが、ジワジワと自律的な出版が育っていくのではないかと思う。
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