投稿日: Sep 16, 2013 3:11:26 AM
ロジックが言葉を補う
日本人のアタマの中は中国でできた漢字文字や漢語の概念の強い影響化にあることを、記事『East Asian Union 構想(1)』では書いた。日本の聖書でも『天』『神』『信仰』などを使うが、読む人は最初はこれがキリスト教ではどのように定義されているかを知らずに、自分たちの漢字知識で読むので、幾分理解に障害が生ずることもある。一般語でも知恵とか知識というような仏教用語をベースにした語は少なくない。宗教の倫理観は似たようなところがあるので、言語が異なって翻訳が滑らかでなくても内容が伝わってしまう点は多いように思う。しかし厳密なことを問題にする神学では、漢字や日本語を離れて、少なくとも英語レベルでは理解しておかないとマズいと思う。
日本に印刷が伝わったのは、上海の美華書館から漢字活字や印刷設備一式を本木昌造が購入して始めたとされる。それ以外にも多くの日本人が輸入や自力で活字開発を行ったが、一日の長のある美華書館由来の技術が日本の近代印刷の礎になった。美華書館に伝わった活字というのは聖書を中国で印刷するためのもので、印刷の苦労の前に翻訳の苦労というのがあって、ヘブン=天、ヤハウェ・エホバ=主、などの単語の対応を決めても、それで英文を漢字表記にすると誤解の元となる。中国人は「天の父」というのは自分の死んだ祖先のことと思ってしまうので文章を変える必要が生じたという。
「信仰」というのも仏教語ではないかと思うが、キリスト教ではfaithになり、信じるということ以外に、従うということに重きが置かれる。しかし日本で使う信仰という言葉では人に与えられた啓示に従い通すという意味合いが、一般人に対しては伝わらないのではないかと思う。こういう漢字・漢語の束縛を受ける分野は人文系には多くある。美術や音楽は文字伝達に依存しないのであまり束縛を受けないが、哲学とか心理学は同じような困難さを経験しているのではないだろうか?
現代の中国のインテリは日本以上に英語が使えるようなので、むしろ本家中国では漢字でも正確な表現ができるようになっているのかもしれない。日本人同士で議論が咬み合わないことの一因に言葉の定義がお互いに食い違っている場合がある。それは漢字の本来の意味と、派生的に使われる意味の差である場合が多い。行政でも日本の教条主義に陥りやすいのは、行政側が狭義の解釈をするのに、住民の方は広義に解釈していることからくる。つまり漢字を使った言葉の定義を漢字を使って行っている以上、トートロジーになりがちだということだ。
日本人は漢字混じり文を避けて通れないので、むしろ修辞など表面的な言葉遣いよりもロジックを教養として身につけるようにしなければならないのではないか。