投稿日: Apr 13, 2012 12:42:38 AM
管理社会の弊害を感じる方へ
中国で個人の著作権を国が持つ案について日本ではトンでもないという意見がいろいろなところに書き込まれたが、だいたい今まで中国で著作権というものがどうだったのか知らないし、またどのような議論が起こってるかも日本では分からない。どうもこの文章を読むと、国が知財物の利用をさせるも・させないもコントロールする慣例があったようである。しかし国民の間での著作権のやりとりはルールがあったようには思えない。中国もグローバル化の中で法令の整備は進めているのだろうが、それは外交・貿易摩擦を考えてのことで、中国の国内習慣に手をつけることは歴史的に難しいだろう。
日本は長らく中国文化の後を追っていたので、日本人には中国の流儀も分かりやすい面がある。書道というのにどういう知財権があるのか知らないが、一般に習字の世界ではクラスで皆が「元気な子」と書いても個々人の作品の創作性を認めることはなく、単に高評価を得た人が勝ちということになる。母親が戦前に日本画をやっていたが、それもお手本の模写をして評価を得るというものだった。当然習字でも絵でも、お手本を真似ることは薦められこそすれ、真似ていけないことはない。お手本を習って、それを超えるという文化である。
iPhoneのそっくり製品が中国国内にいっぱいあって、hiPhoneなどはどのそっくり製品よりもウチのが一番iPhoneに近いという宣伝をしていたが、工業製品でもこのような模倣競争があるのは、必ずしも偽物で商売しようという考えだけでなく、本物に近づくための努力であるとも考えられる。日本も追いつき追い越せということをしていて、模倣が最終目標ではなかったわけだし、歴史的にはアメリカもヨーロッパの製品の模倣から始まったものは多くあった。しかしこういったことから生ずる商取引上の混乱を治めるために、後付で知財権は出てきたのだと思う。だから人に最初から人格が認められるように、人の営みの結果も権利が与えられるという原則が最初からどこかにあったわけではないと思う。少なくとも東洋には。
むしろ「最初に知財権ありき」と考えてしまうと、農業の品種改良のような方法に特許とか持ち込むと、伝統的な産業のやり方と競合して混乱してしまうことが起こる。発酵食品、養殖や酪農などにもそういうことはあるだろう。こういう自然の力を背景にした産業と、設備導入をして誰でも作れるようにしてしまう工業分野は同じ知財権の法体系でまとめられるのかどうか疑問に思う。実際にはパブリックドメインとかフェアユースという自由利用領域もつくられたが、それは社会という単位で見ると、皆によい結果をもたらすものは、皆が使えるようにするべきで、それを個々の利益を優先してお互いが制約しあっていると、その社会は弱体化するからである。日本は伝統産業はそうしていたのに、工業や商業的なルールに関しては個別主義が強く、パブリックドメインとかフェアユースは法の影に隠れがちである。このねじれを解きほぐすことはできるのだろうか。