投稿日: May 27, 2015 1:41:51 AM
産業革命以来の大量生産・大量消費から、持続可能社会への転換というのは、もうひとつ日本では盛り上がらない政策テーマのようだが、実は日本はまだ欧米よりも優位な点が多い領域であって、欧米に比べて競争力があると思う。それはマクロ的に言えば江戸時代の鎖国の中で生活を向上させてきた経験を受け継いでいるからで、ヨーロッパのような植民地主義で地球のリソースを食い荒らしてきたのとはワケが違い、環境・資源に関して循環的な管理が個人レベルでも相当浸透していたからである。これは東南アジアで稠密に人が暮らす社会にかなり共通した特質かも知れない。
ヨーロッパの植民地主義は宣教師が新世界に向かうのと一緒であったようにキリスト教文化に影響を受けている。これは旧約聖書の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」に代表されるように、伸びシロが無限にある前提なのである。ところが日本は弥生時代に農耕可能地がほぼ開拓されつくされて、限られた土地での生息可能人口が制約を受けてしまい、それ以上に人が生まれたら口減らししなければならなくなったのとは正反対である。
日本からハワイ、アメリカ大陸に移民が行われたのは、その口減らしの延長であり、欧米のような植民地経営を柱にした転出とは反対であった。ところが欧米のような植民地主義を第二次大戦の時には日本も真似をして大失敗をした。歴史的に日本は植民地経営で成功したことはないので、そういった無謀さは反省するべきである。
しかし日本が鎖国をすればよいという意味ではないが、農耕の周囲に里山とか林業とかあわせて生態系を維持しながら生産活動も伸ばしてきたことは再評価するべきだろう。今はこれらの関係が崩れて、里山であるべきところに宅地開発して土砂崩れを起こすとか、植林を放置して山崩れになったりする。中央官庁が縦割りになって知恵がまわらなくなった例である。
日本人が限られた土地であっても江戸時代に算出を増やし続けたのは、一つは特産品などその土地の資源の有効利用を勧めたからで、使えるものはトコトン使うというミクロな指向が発達したのだと思う。食品加工でも廃棄は少なく、そのままで食べられないものでも何らか役立たせる文化が生まれた。木材でも寄木細工のようなものから、近年の集成材まで工夫は続いている。心情としては「もったいない」というのがあるからできることだと思う。
近年はマイクロエレクトロニクスという分野にも「もったいない」というケチくさい思考のテクノロジーがビジネスとして花を咲かせ、同じ量の材料から、より多くの高機能な小さなものを作ることに結びついていると思う。またこういうことは東南アジアのみんなが得意としていることが明らかである。
エコのスローガンとしてよくいわれる3R(リユース、リデュース、リサイクル)のうち、廃棄を削減することと、廃棄物を再資源化するというところに関係していて、結果的には廃棄物を出さない(ゼロエミッション)知恵が重要であろう。言い換えると日本人の心に「もったいない」が残っている間に、ゼロエミッションを目指して再資源化が経済的に成立するように業際的な取り組みが必要であるということになる。
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