投稿日: May 13, 2014 7:26:30 AM
文化の再生産
ネットでメルマガとかブログを書く人は多いが、炎上でイヤな思いをしてやめてしまう場合もある。紙の媒体ではこれくらいのことは炎上しなかったようなことも、ネットでは大騒ぎになることがある。実際には炎上は一過性だからしばらくすると何もなかったようになるのだろうが、炎上期間は何を言っても書いても火に油を注ぐようなことになりかねない。
人は不用意な発言や不注意な発言をしてしまうことがあるが、紙媒体のように編集者が一旦チェックする場合は、事前に問題が起こらないように、ある程度の回避策はとられる。それでも問題になる場合はあるが、責任も出版社と著者でわけあうことになる。
しかしネットのメディアは編集者が居ないか、居ても責任はかぶらないつもりか、殆どサイトの責任者が事情説明をすることはないので、すべての意見やクレームは著者が対応することになる。自分が書いて公表したことだから、自分で対処するのは当たり前のようであはあるが、炎上のコメントを見ていると、よく読まずに早とちりして暴言を吐くとか、前のコメントも読まずに同じコメントをつけるとか、炎上気分に同調してけしかけるやじ馬が居るとか、そもそも原文を読んでいないとか、批評としてはとっても浅いというか、幼稚で、取るに足らない内容であったりする。印刷物の場合は批評する方も文章をよく読まないとツッコめなかったのに、ネットでは安易に批評するようになるのだろうか。
いい加減な批評はほっておいてもよいのだが、揚げ足を取ろうと手をこまねいている人がいるネットでは、逆説表現とか皮肉とかブラックな表現は通じないので、文章も面白味が欠けることになってしまいそうだ。要するに表現媒体としてはネット環境は未熟であるともいえる。
翻って過去何百年の伝統がある出版というのを考えると、制作に時間はかかったかもしれないけれども、コンテンツを世に出して何らかの反応を得ようとする企みにも十分な時間があったともいえる。校正過程ではギリギリ表現の微妙なところの推敲が繰り返されていて、その上に風刺や逆説表現も可能になって、複雑で多様な表現の出版文化を築いたと考えられる。
そもそも従来の出版のプロセスでは著者に完全であることは期待していないで、資料集めやウラとり、会議というかたちでプロジェクトチームでコンテンツを完成させるように発達してきた。こういうバックボーンがあって著者を育てて守っていた。またこういうことに関った編集者が著者になることも多くあった。文化の再生産メカニズムである。
ネットで誰でも勝手に発言できるとはいっても、ネットの上には自分を守ってくれるとか、作る過程で協力してくれる人は殆どいないだろうから、ネタとしてユニークなコラムニストがネット上に現れても育てられることはなかなか無いように思える。要するに文化の再生産ができるようにはなっていないのである。
ただし、著者が編集者とか出版社に囲まれているのはよいことばかりではなく、著者の名前や肩書きを利用して読者を翻弄していたものもあるから諸刃の剣ではあるのだが…。