投稿日: Aug 21, 2013 1:59:36 AM
ARを再考する
子供が小学生までの頃は、夏休みに1週間ほど車でキャンプ場まわりをしていた。バンガローの予約をすることもあれば、行きがかりで適当なキャンプ場をみつけてテントを張って過ごした。主に北海道を走り回っていたが、当時はケータイも圏外になり電話もかからず、テレビも新聞もなく、日々のニュースも知らずにいるという、全く情報が入らなくなる生活がすがすがしくもあった。子供が成人になって家庭を持つようになったなら、きっと同じようなことをするだろう。我々も似たことをしていたからである。
自分が子供の頃は、オヤジの会社の海の家が「島」にあって、そこへ泊まりに行った。水道は無く、雨水を甕にためて何にでも使っていた。そこでも日々の情報が入ってこない生活だった。
このようにかなりの人が一時だけ情報遮断生活を経験して、また情報の溢れる日常に戻っていく。都市生活においては情報はいちいち付き合ってられないほど押し寄せてくる。朝、新聞を開いて中のチラシを一挙に捨てる人もいれば、新聞をかたずけてチラシに目配りする人も居る。記事とチラシの両方を丹念に見る人は居ないだろう。そもそも新聞をとらない人も増えた。街には雑誌が壁のように陳列され、フリーペーパーが溢れていたこともあったが、これらも半減したように思う。日本では紙の情報は人の受容能力を超えて飽和したので下降したと考えてもよい。
一方でスマホなどをいじっている時間が増えていて、広告・プロモーションはネットにシフトしたとはいうものの、そもそもが読みきれないほどの紙の情報をサーバに置いたところで、やはり見いだされて読まれる情報の総量は多くはならないはずだ。これは胃袋のキャパに限界があるのと似ていて、和食を中華に替えても食べられる総量は増えないのと同様だろう。こういう情報受容側が飽和するような情報環境と、キャンプ生活の情報遮断環境を比べると、何が違っているのだろうか。
一時だけであっても、自然の中で過ごすことには多くの「気づき」が生じることを人は経験する。知識の量は飽和的情報環境の方がたくさん得られるのは自明だが、例えば自分にとって素敵だと思えることは何なのか、自然のメカニズムの精巧さ、……など子供はこどもなりに、大人は大人なりに印象づけられることがある。
そのままずっと自然の中で暮らすと、飽きて新鮮な感覚が失われることもあろうが、こういう自然環境がもたらす気づきは、不思議なことに情報環境のバーチャルな経験では得られない。つまり人間の感性を考えたらバーチャルな環境は完全にはなり得ないのだろう。
今日バーチャルな情報は物理的制限がほとんどないほど大量に蓄積・提供が可能になっているのだが、各種メディアの間でリンクを張ってコンバージョン云々ということをいくらやっても、お腹いっぱいの人には振り向いてもらいにくい。ARとかも本来は、メディアの世界の外側から情報環境にリンクを張るところにあるのだろう。だから印刷物を画像としてキャプチャしてARするというのは、メディアの世界の内側でぐるぐるまわっているだけに過ぎないように思える。