投稿日: Oct 22, 2011 3:1:22 PM
思い切った復興案が必要なのだが…
10月22日の土曜日に、2011年3月11日の東北大震災による石巻市から牡鹿半島の女川港のあたりの地震津波被害の傷跡と復興の様子を車で案内していただいた。道路や公共的な場所の瓦礫は夏ごろにはかたずいていて、一見すると家もちゃんとして平成を取り戻しているようでも、石巻線のまわりでは放置された家が目立つし、私有地はかたずけに手がまわっていないところがある。野蒜駅はプラットホームの天井まで泥の後があった。
地盤が70cm~1mほど低下しているとのことで、海岸に1メートルほどの土嚢を積んでいるところがある。満潮時には道路が冠水する。防潮堤や護岸工事の目処がたたなければ、住宅や水産加工などの仕事の再建計画もできない状態だ。そんな地域が広大にある。人が戻れる日がいつくるのか、皆目見当がつかない。
最も凄まじかったのは女川港あたりで、ストリートビューでみると家がびっしり並んでいる国道沿いがすべて更地化している。写真上の左の黄線あたりまで津波が来て小高いところにある町立病院の1階まで水につかった。その下の町は跡形もなくなっている。
上の写真はマスコミでも報道されたが、女川港の岸壁あたりでビルが横倒しになっている。ここも過去の写真をみるとびっしり建物で埋め尽くされていた。今は地面と海面がほとんど同じような高さになっていて、水溜りと海の区別がつかないほどだ。これらのビルはすべて津波では水面下になった。山のふもとも海水に浸った部分は杉が立ち枯れになっている。
写真上は女川駅に隣接する生涯学習センター。駅は跡形もなくなった(ストーリービューでは残っている)。このビルも完全に水没していて、写真右は4階にある図書館。屋外の瓦礫はかたずいていても、このような内部は手付かず。この左に町役場があるが、放置されている。臨時の役場や被災者住宅は山の上に作られていた。
まるで原爆投下の後のように、街が忽然と消えたのだ。そこに立ってみると街があったことがどうしても想像できない。ストリートビュー(下写真)には家や商店が立ち並んだかつての港街が残っているが、きつねにつままれたような心地がする。
度重なる日本海溝からの地震の経験から家々は堅牢に作られていたのだろう。仙台駅周辺では震災前と比べて変化は気づかなかった。また松島のような入り組んだ湾の内側には殆ど津波の被害はなかったようだ。取り戻した平成さと半年を超す手付かず状態が同居する仙台周辺。
つまり津波の被害は地形に極端に影響されている。女川港のように奥深く細まっていく地形では津波の高さが何倍にもなって、これほどの水位を想定した防災の対策が立てようがないほどだ。一方松島も含めて海岸線は地盤が下がっていて道路を少し盛り上げていたりするが、根本的には道路や線路を別のところに付け替えなければならないので、修復以上にやっかいなものだ。
たかが70cmの地盤沈下とはいえ、人の力ではどうしようもない。しかし人が自然の力の前にひれ伏して、過去の土地利用を諦めて新たに考え直すようには、なかなかならないだろう。強力なリーダーシップというのが今の日本には一番欠けているものなので、その結果としてまだ何十年の苦渋が続くのかもしれない。