投稿日: Mar 23, 2012 1:7:2 AM
情報発信の足元を固めたい方へ
絵を描いたり音楽をする理由は金銭を得ることが動機とは限らず、個人の楽しみとか人生の一部として多くは行なわれているように、文章を書くことも漫画を描 くことも必ずしもプロによる商業的ルールを第一に考える時代ではなくなるということを、何度か書いてきた。これは知財権のことも流通メカニズムも従来の日本の慣行から変わる部分があることを意味する。かつては文章を流布するには印刷の世話にならざるを得なかったのが、ネットメディアは個人でも扱えるように なったからで、これは次は漫画の世界にも波及するだろう。こういったことがコンテンツの底辺となって、それを編集・再構成する商業メディアが並存する時代 になる、というのが私の考えだ。
記事『「印刷」という語の始まり』 では、松浦広氏が印刷朝陽会から「図説 印刷文化の原点」を紹介しているが、その第二章は「日本語による新聞の始まりとその時代」となっていて、黎明期のことを調べあげている。一般に1872年(明治5年)毎日新聞、1874年(明治7年)讀賣新聞、1879年(明治12年)朝日新聞というのが有名だが、その前に1862年(文久2年)に江戸幕府の翻訳機関である洋書調所が東インド会社のジャワ新聞を翻訳した「官板バタビア新聞」23巻を1年ほど発行して いたことが書かれている。これはB5判に近いもので、新聞発祥のヨーロッパでも黎明期はサイズはバラバラであって、小冊子のものまであった。共通項は NEWSを扱っていることである。「官板バタビア新聞」は、それ以前に幕府内で極秘文書としてあった和蘭風説書が、幕末になってスタンホープ印刷機で刷ら れてオープンになっていったものと考えられる。
その後1864年(元治元年)幕末の通訳である浜田彦蔵が英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を数ヶ月発刊が赤字でやめたという話もある。この本では翻訳 ではなく最初から日本語で書かれた新聞は1868年(慶応4年明治元年)に開成所で翻訳の仕事をしていた人たちが出した「中外新聞」で、江戸幕府と新政府 の間の緊張が高まった時代に双方から新聞が出されて日本のジャーナリズムが芽生えていったことがわかる。ただし新聞といっても発行のスタイルとしては「文書」である。まだ金属活字はなく木活字だったので部数も多くはなかったはずだ。
これらとは別に日刊新聞として、本木昌造の金属活字を使ったことで有名な横浜毎日新聞などが明治初期に興ってくる。これはタブロイド版なので現代の新聞の イメージに近い。その後に冒頭の毎日、讀賣、朝日が続くことになる。この新聞スタイルのものも瓦版系の大衆紙と政治プロパガンダと商業ジャーナリズムとい う百家争鳴の時代を経て、全国紙や県紙の発行スタイルができる。
今のネット上のメディアと称するものがいろいろ出ていることを考えると、再び時代は百家争鳴になるのかなと思えるし、そうだと暫らくは商業的な基盤の確立 はおぼつかないだろう。だからメディアを作る理由は金銭ではなく、「文書」の延長であったり、ビジネスの情報共有だったり、娯楽・政治・出版などの活動に付随してネットメディアが運営されることになるのだろう。つまりメディアを作る理由は自分の本来業務に関した足元にあるはずだし、だから原稿料とか購読料 とかを問題にしているところを迂回してデジタルメディアは進んでいくのだろう。