投稿日: Jan 09, 2016 12:50:23 AM
自分の子供の頃の記憶としても国語の勉強をしたような気がしない。息子が塾通いしていた時でも国語の勉強をしていた様子は無かった。文字の読書き以外にどんな国語教育があるのか思い当たらない。それほど国語というのは身近すぎて、意識されないものなのだろう。国語の点数が悪くても困らないと感じる人も多いだろう。理科系に進む人には国語が苦手だからという人もいるだろう。それでも何らかの成果を得ることはできるだろう。
おそらく日本語というのも、実際はいくつか異なるものが併存しているのだろうと思う。直木賞を取るような芸人の書いた小説は読んだことはないのだが、若い人のblogとかラノベなどを見ていると、学校の国語が出来た人ではないのかもしれないが、なんらかの表現スキルは持っているのだろうな、と思う。twitterで日々の生活の何気ないことをツイートしている無名の若者でも1万フォローされているというのはザラにあって、オトナからみたら不完全な日本語かもしれないが、言語として共感を広げる役割は果たしているようには思える。
しかし、自然発生的な若者言語のような日本語は情動的で、持続的な思考には向いていないようにも思える。blogではやけに改行が多いとか、行間をあけるとか、言葉のイメージを引き立たせるようなレイアウト表現に凝っていて、論理記号としての言語規則というのは無視されているようなものもある。要するに何をいっているのかわからないが、雰囲気だけをあらわそうとしたのではないか、という感じである。文学ではそれでもいいのかもしれないが、実用的な領域でそういうレトリックを使われたら困る(政治家にはありがちだが…)。
学校の日本語教育というのも小説を題材にて、言語の論理性とは別に情緒的な読取を求めたりしたので、理系の人が国語を苦手に思ったのかもしれないし、また論旨の展開を問うような問題では、情緒でしか言語をとらえなかった人がつまづくことも起こったのだろう。日本語の問題は、記号論理と情緒の2つのベクトルがあって、それらをどのようにうまく切り分けて教えたらよいのか、というのがむつかしかったのだろう。情緒の方は生きていれば自然に身につくのかもしれないが、ロジックを読み解く方は訓練が必要で、それが小中高大と高まっていくようにはカリキュラム化されていないのが現実ではないだろうか。
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