投稿日: Jul 18, 2013 12:19:49 AM
ネットはマスメディアに代わるのか
ハリーポッターの作者が別の名前で新しい探偵小説を出したら最初は1500部しか出なかったが、書評で高い評価をする人が居て次第に名が知られるようになり、遂にハリーポッターの作者であることが判明して書籍の売上が1位になったという。当の作者にしてみれば、ハリーポッターの延長上でマーケティングして稼ぐよりも、冒険的な方法ではあるにせよ、成功するであろう一定の読みとか自身はあったのだろう。それは書籍のマーケティングが 書評→クチコミ というスタイルで機能するという確信なのかもしれない。
このあたりは国状とか国民性の違いがあって、日本では違うスタイルのマーケティングになると思う。それは欧米のように個人のパーソナリティとしての批評家とかキュレータが日本には非常に少ないから、批評に着目して自分の行動を決めるといったことにならないからである。日本でもムカシはラジオの音楽番組のDJ(だいたいDJは和製英語のはず)が活躍していたが、今はそういう人はいるのだろうか?ヨーロッパはクラブ文化の中でDJさん達が脚光を浴びるようになっている。DJのギャラがどんなものなのかを記事『キュレータは金になるのか?』で書いたことがある。
日本の消費者は個人のキュレータの意見よりも格付けに頼る傾向があり、ランキングとか評判とか、芥川賞・直木賞といったアワードが重要になる。芸術の趣味嗜好というのは自分という人格にフィットするものを探して身にまとうというような、自己確認のプロセスであると思うのだが、そこに社会的な一般評価を持ち込んでしまうと、自分の魂を世間一般の風潮に埋没させてしまうというか、自分のアイデンティティーを薄める方向にいってしまう。これが国民性であって、日本では自分探しを徹底しないで、半分は自分を外部に同調させて生きているのであると思う。
日本でソーシャルメディアがイマイチ強靭にならないのも、ソーシャルメディアに滲み出る個人情報が、個性のある生き方よりは同調的な生き方が多いからではないだろうか。それはそれで、お互いの生き方を「いいね」で呼応している関係を作っているのだから何も文句はないが、「いいね」をマーケティングの指標にするには向いていない。つまり情報の内容が「いいね」であるよりも、postしている相手に「いいね」を贈っているので、「いいね」を情報の評価とはみなせないだろうと思える。
つまり日本のクチコミは以前から批評・評価ではなく人気投票程度の意味であって、それはマスメディアとほぼ同期している。たまたま近年はマスメディアの担い手が高齢化していて、コンテンツという視点では若者向けのマスメディアがないから、ネットのクチコミは新しい機能を果たしているように思えるかもしれないが、ネットで若者の世界にキュレーションとか批評が根付いてきたとも思えないのである。