投稿日: Mar 30, 2015 12:57:37 AM
NHKでプラントハンター何某というのを番組でやっていて、横目で見ながら気付いたのだが、主人公の実家である5代続いた「花宇」というのは、以前私が住んでいたところの傍だった。私が居たのは池田市だったが、川を西にわたると川西市で、そこに「花宇」はある。池田市には阪急の小林一三の雅俗山荘を改装した逸翁美術館があり、江戸時代後期に建設された小林一三の本邸の門もそこに移築されている。庭や茶室も立派で、特に茶に関しては小林一三は茶人としても有名で、松下幸之助や北大路魯山人や五島慶太などが茶友であったという。
私は池田市を離れて東京に来てから、池田市がどのような場所であったのかわかった。池田市は大阪の平野部の北の端にあたり、そこから先は山間部となる。池田は昔からの街道町で山の産品が集められて交易される場所であった。現在でも茶の湯の最高の炭というのを供給している。川の池田市側にも庭園用の庭木を扱う業者がいくつかあり、山地の木を造園用に改良して、おそらく大阪の富裕層相手の商売をしてきたのだろうことが推測される。
若いころにはそのようなものに興味は無かった。同志社の美学芸術学科に入ってみると、お茶やお花の家元の子息も多く来ていたのだが、彼らも必ずしも興味はもっておらず、フツーの若者として暮らしている一方で、その方面の教養はやはり身に着けていて、大学生でも師範としてバイトをしている者もいた。彼らが育った中で身に着けた美的感覚というのは、教授と言えども真似のできないもので、同志社美学では先生から触発されるよりも学生から触発されることの方が多かった気がする。そのことをプラントハンター何某を見ていて思い出した。
富裕層の趣味に仕えるために仕事をするとなると面白味はないのだが、富裕層を唸らせるような仕事ができるとなると、伝統文化に身を置くのは悪くは無いかなという気がする。ただし伝統文化は門外漢が身に着けるのはなかなか困難なので、やはり子供が育つ環境が伝統文化を受け継いでいる必要がある。池田市は古い街道町だったので、旧街道沿いには土蔵が並んでいたし、江戸末期から続く芝居小屋(映画館に改装)とか江戸末期のうどん屋、遊郭の名残を残す一画、豊臣秀吉のころからの酒蔵などが1980年頃でも残っていた。しかし高度成長期の日本で昔の人の暮らしぶりに目を向けるものはおらず、あまり記録も残されなかったのではないかと思う。
実は日本中に昔の人の暮らしはあって、その中には受け継ぐべき伝統文化もあるわけだが、有名人の名前が出てこないような場合には記念館ができるとか、記録がちゃんと整理されることはないのだろう。地域文化の担い手はだいたいNPOになりつつある。これは文化行政の肩代わりのような面もある。地域おこしに特産品を開発して一儲けしようと企むよりも、地勢がどのように地域文化を作ってきたのかを解明して、生き残っている文化を基盤に将来を考える方が遠回りでも本道になるような気がする。
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