投稿日: Apr 24, 2013 1:30:29 AM
万事、塞翁が馬と思う方へ
就活とか婚活という言葉は何時頃から使われだしたのか思い出せないのだが、恐らくバブル以降(20年前)だろうと思うのは、物事が予定どうりに行かないことに焦っている様子があるからだ。何十の企業への応募をしたような話を聞くと、実は何かしたいという特別な思いはなくて、雇ってくれるなら何処でもいいのじゃないかともとれる。それならいっそ職安(今はハローワークか?)に行けば何かしら仕事はあるのだから、それでなぜダメなのだろうか?おそらく就活する人には上場企業とか会社の格が一番問題なのだろう。このコダワリはバブルの前にはそれほど強くなかったように思う。
つまりバブル前は中小企業でも、あるいは駆け出しのベンチャーでもそれなりの収入が得られるくらい、景気の良い時代もあった。当然景気不景気の変動はあるが、なぜか頑張ればやっていけるだろう感は日本には漂っていたように思う。私が大学が出た当時も不景気感はあったが、悲壮感はなかった。まだ日本の家電も世界の家電という段階には行っていなくて、記事『日本の強み発見伝』に書いたように松下電器の洗濯機工場も下請けが多かった。大企業も中小企業もやっていることはどっこいどっこいだった。だから大企業に特別の期待はなかったように思う。
また今ユニクロやワタミがブラック企業云々といわれるが、当時はブラック企業を避けていたならば上場企業に就職をすることは不可能だっただろう。当然中小企業にはそれ以上の漆黒純黒企業はいっぱいあった。とすると今の就活というのは「青い鳥」探しになっているのではないか。これは今のブラック企業を認めているわけではないが、社会を良い方向にしていくということも社会人の努めであるのだから、社会のダークな面を避けてばかりは居られないという認識は必要である。
現実が自分の思う理想とかけ離れているからといって、社会を悪く思うのは、アメリカに何らかの期待を描いたものの、
アメリカ市民に成ろうとして成れなかったボストンマラソン爆弾犯と同じようなことになりはしないか?きっと私などの世代の人は就活とか婚活という言葉から、幻想とか妄想にとらわれて行動している姿を思い浮かべてしまうのだが、こういった幻想というのは結局人種差別とかにも共通していて、ネットのような匿名とか仮想のコミュニケーションで増幅されてしまう傾向を感じる。(ボストンマラソン爆弾犯もアメリカ市民の夢が潰えてから、アメリカに住みながらネットの情報でイスラム過激派に自分を同化していったと考えられている)