投稿日: Apr 25, 2014 1:24:49 AM
犠牲者になんといったらよいのか
9年前に福知山線脱線事故の惨状のニュースが流れているさなかに母は病室で息をひきとった。そんなわけで100名以上の死者を出したこのJR事故は忘れられないものとなっている。今また韓国のフェリー沈没の犠牲者は200名近くにのぼるとみられている。また先月はマレーシア航空機が行方不明になり240人ほどが海に沈んだと見られている。さらに東日本大震災では検視された死者に限っても15,786人にのぼっている。
一人の人の命は地球よりも重いという言いかたもあるが、人の命も動物や虫けらの命と同等なはかなさを持ちあわせているのが事実だ。
反面、絶滅危惧種でも生存環境を整えてさえすれば種の存続が可能なほどに回復する例もある。当然人間も個々の人間はバラバラに死期を迎えるが、種としては繁栄していると言えるのだろうし、他の動物と異なる人間らしさという点では、人種・民族というような集団として個人の生き死にを離れて文化を形成していて、このそれぞれの固有文化というのも個人と同じ様に消えてしまったり回復したりするものである。
生物の人という点では、たとえある集団の人口の3分の1が死に絶えても、しばらくすると人口は回復するし、文化も回復する。第2次大戦の空襲や原爆投下で壊滅的になった日本の都市も10年で回復したし、阪神大震災の時もそうであった。私の小さいころはまだ戦争の傷跡があって町内の祭りなどは回復していなかったが大人になるころには回復していた。
おそらくそういった文化的な回復は以前のものを完全に再現するものではなく、どこか時代に合わせて調整がされていくのであろう。日本各地でいろいろな伝承に向けての努力はされているが、昔のような強制的な色彩はなくなってきているのも、その調整の一面である。
痛ましい事故というのも、真摯に反省がされて、犠牲者を弔う際にも「過ちは繰り返しません」と誓うように、制度の改善を繰り返し行ってきた。しかし反省がないところでは改善もない。早く反省をするところは早く改善をする。残念なことに相当な死者が出ないことには反省ができないのが人間なのかもしれない。JR事故のその後をみると反省があるのかどうか疑わしく思うし、東日本大震災では多くの死者が出たとはいっても直接放射能で死んだ人は居ないので原発は反省した様子がない。
どうも企業経営を守ろうという視点が強すぎると反省を遅らせるという傾向があって、過去の公害裁判でも20~30年もたってやっと補償した例が多くある。これは死者の身内の人々が生涯をかけて係争してきたからできたことで、死者が少ないと長期裁判ができず、責任追求も改善もうやむやになってしまうというのは、日本も含めて人類の文化の未熟さのように思う。