投稿日: Sep 04, 2010 12:5:8 AM
マス広告の質的変化を憂う方へ
「今買えば、このお値段!」というようなTVCMは夢も希望もないと感じる人が居る。知らないものを気づかせてくれた、もっと素敵なものがある、憧れる、といった広告が人々の心にもたらせたものを振り返ると、今のTVは面白くないとか、広告は文化のはずだったのに、ということになる。しかしアメリカでTVを見ると、広告の主流は昔から「今買えば、このお値段!」というようなものだった。一体日本における人々の広告への期待というのはどこから出てきたのか? これは決して広告の機能だったのではなくて、高度経済成長から充実期の日本人の感受性が広告に反映していたのだといえる。
そういった広告をもう一度、というのは無理なのだろうか? 今でもブランド物の広告がいっぱいある世界もあるが、大衆的な媒体においては難しいだろう。つまり今のTVの番組の質を考えると、そんなTVをだらだら見ている人が、気づき、素敵、憧れ、という感受性を持っている気がしないからだ。以前「広告は「製品」を超えない」という記事を書いたが、「広告は見る人を超えない」ともいえるだろう。つまり「素敵な」広告が通用する領域が狭まっている。広告業界でもA/Lを指向する人はそこに棲みつけばいいのだが、大衆的な媒体での売り上げも守りたいということから目的と実態がねじれた広告ビジネスも生じる。
宝島社が9月2日に新聞全面広告を出していて、twitterでもいくらかつぶやかれたが、この会社の決算期は8月31日なので、やはり期末特需なのかという気がした。別段宝島社にどうこういうつもりはなくて、ただ金のあるところに擦り寄る広告代理店の姿が思い浮かんでキモチが悪かった。企業が決算期になると「税金払うくらいなら広告でも」という恒例の広告でTVや新聞が突如賑わうことがあるが、株主はどう思うだろうか? ここに本来の広告の役割はあるのだろうか。
人々の心を盛り立てるような広告の意味はわかるが、それとビジネスをどう重ね合わせるのかの問題である。ある理念や理想に基づいて広告コミュニケーションを推進したいならNPOかNGOで自由にすればよい。国境無き医師団でも人々に高く評価される働きをしている。作ることにこだわるならメルヘン作家にでもなればいい。ビジネスの手伝いをするなら少なくとも株主に説明できないような事柄は控えるべき時代である。こういったところを整理しないと、新ビジネスや新サービスの斬り込み隊にもなれなければ、顧客との関係改善による好循環をつくりだすこともできない。
阪神が大差で勝利ムードの中で中継ぎに出てくる福原投手はエースとは呼べないのと同じように、ねじれた広告はエースの仕事ではない。