投稿日: Feb 09, 2013 12:40:55 AM
体罰のマイナス面を考える方へ
日本のスポーツ界は体罰問題で揺れているようだが、何か非常に幼稚な問題のように思える。私の家では小さいときから犬を飼っていたので、子供ながら犬と遊んでいて、犬にいろんな躾をしたり芸を仕込んでいた。犬は非常に従順になり家族の一員として、部屋の中でも秩序を保って一緒に暮らしていた。それはよいことだが、同時にいろんな疑問ももつようになった。一見すると犬はまるで人間みたいに行動するし、「玄関へ行って新聞をとってきて」と言葉で指示しても通じるし、人の行動も先読みするようになる。しかし「雑誌をもってこい」という応用は利かないし、躾を変更するとかルールを変更することは非常に困難なのである。
つまり犬は子犬の頃から刷り込んだとうりに行動するが、その刷り込みから離れた判断や行動が極めて苦手なのである。だから一通りの習性しか身につかない。しかしこれは犬だけではなく人間にも当てはまると思う。体罰でもパワハラでも脅迫的な支配をすれば人は「ある」習性を身に着けて、それでわき目も振らずに効率的に能力向上することもあるだろう。しかしそういった経験がその人の人生を支えるものになるだろうか?むしろ逆の作用があって、体罰の指導から離れたら自分で考えて判断して行動するようなことは何も出来ない人になる可能性もある。体罰がずっと受け継がれてきたとすると、体罰指導しか出来ない人間を作り出してきたともいえる。
さらにこれはスポーツに限ったことではなく、ビジネスでも技術開発でも新たな状況が起こった時に、どれだけ柔軟に行動できるかということにもつながる。会社が何かヒット商品を出して、一度成功体験ができてもそれっきりということは非常に多い。むしろ大きくなってしまった所帯を支えるだけの知恵が生まれてこないわけで、これは零細企業から大企業まで共通している。犬と違って子供を鍛えるというのは、いろんな環境変化に対応できる柔軟性とか、方向転換ができる情報力や判断力・行動力というのを身につけさせるべきなのだが、日本ではそういう指向が薄れていたのは、右肩上がりの社会では方向転換の必要がなかったからだろう。
今経済発展が著しいアジア諸国も、おそらく近いうちに方向転換が迫られるようになるだろうが、その時に同じようなことが試されるだろう。やはり華僑とか客家とかには見習う点は多いように思う。台湾・香港・本土あるいは諸外国に散らばっている中国企業であっても、一つの目的のためには合作が可能な要素をもっているからだ。かれらは主として親族などの人脈という要素でつながるわけだが、日本の課題はそういうことを超えて世界的に適切なパートナーを選りすぐって、コラボできるようになる必要があるだろう。
災い転じて幸いとなす、という面では大震災に見舞われる経験をした人は、方向転換が必須なわけで、そういった体験から新しい力を得ていくのだろう。被災地の再建再興を国の予算やの問題にするのではなく、日本中が知恵を出し合うべき課題とすれば、日本全体の力になるはずだ。