投稿日: Aug 12, 2014 1:9:5 AM
日本はこの地上でも幸いなことに最も無難で平安に生きていける場所である。であるのにブツブツいう人とか、他人を攻撃する人、鬱になる人、自殺する人などは増えているように思える。不幸なことである。実は誰もその人を攻撃したりしていないのである。たまたま新宿近辺を歩いていたらすごくドンヨリした人の行列に出くわしたことがある。いわゆるヘイトスピーチの「韓国人を殺せ」と往来で叫んでいるのと同じようなものだが、政治的なデモの内から熱く燃えるような雰囲気はなかった。この人たちは韓国人にひどい目に遭わされたことがあるのだろうかと不思議に思った。もしそのような怨念とか復讐したい気持ちがあったら、もっと燃えるような表現になっていたはずである。
では特に自分と利害の反する関係にない人々に対してヘイトをする意味があるのだろうか?謎である。この人たちに対して言う言葉が見つからない。
しいて考えるならば、この人たちが必要としているのは『敵』なのであって、それは何であってもよかったのではないかということである。ちょっとしたニュースからわざわざ針小棒大に誤解して、敵として十分なイメージを仕立て上げて攻撃しているように見える。そもそも曲解から始まっているので、そこを検証しようというような議論や資料・判断には耳を貸さないであろうし、仲間内の話しか理解する気はなく、外部とは閉ざされた世界を作り出している。
つまり仲間という自分の居場所を作るために敵を作っているというトートロジーを感じる。
ナチもシオニズムもIS(イスラム国)も、あちこちにある部族間対立も同様のものように思える。おそらく人間のどこかに潜んでいる普遍的な帰属の欲求が関係しているのだろう。ヘイトは極端だからほっておくと消えてなくなると、楽観できないものかもしれない。安部首相の支持母体であり首相を動かしている日本会議は自主憲法とか教科書を作る会とかの運動もしている。そこが掲げている主張をみると、『戦後』の否定である。戦後日本に持ち込まれた思想なり文化を消したい人の集まりのようにみえる。
そのために何かあれば個々に難癖をつけているわけだが、その弊害として、何か理念を持って推し進めようというまとまりが邪魔されることは多い。顕著なのは教育分野で、公立学校の教育がいろんなことを決められずに、親は塾や私立に期待をかけるような傾向にある。
『敵』を作らなければ思考や行動ができないようなことでは困る。日本会議に神社本庁を核にしているから攘夷的な皇国史観の閉鎖的な臭いを感じ、世界のどこにでもある民族主義とは区別すべきものように思う。皇国史観とは別のフツーの民族主義が日本にあれば、国際的なコミュニケーションがもっとやりやすくなるのではないか。
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