投稿日: Mar 08, 2014 1:8:10 AM
流されていく日本人(3)
日本の高等教育の進学の問題や子供の養育環境について、制度の改革の問題とは別次元の、もっと人間的な要素を考えた検討が必要だろうということで、記事『流されていく日本人(1)』記事『時代の逆戻しは解決にならない』を書いたが、そのまとめとして整理してみた。
伝統社会
日本では江戸時代などの伝統社会では、地域ごとに人の暮らし方は決まっていて、学校はなくとも口伝で伝えられてきた昔話に必要なリテラシーや教訓が含まれていた。しかもそれらは地域に根付いた宗教の影響を受けて、共通のモラルの基盤となっていただろう。
子供の遊びもそれらと連動していて、またそれらは大人の伝統芸能などにもつながるものであった。大人の社会の子供版のようなものを遊びとして行なっていた。チャンバラとか相撲などもそうであろう。そこにも何らかのルールを教える要素があったのだろう。
年中行事も毎年決まったものがあって、子供は成長に従ってそれにどう関与するかが変わっていって、場合によっては通過儀礼にもなっていた。七五三とか祭りでの役割とかである。
これらのことは住民にとっては選択の余地なく強制なのだが、それはその地域の中だけのことで、地域が異なると上記の要素は微妙に変わっていた。私の子供のころは数十キロ離れると遊びの用語は微妙に異なっていた。
つまり「郷に入っては郷に従え」というように、国家に管理されるようなものではなかった。
しかし明治維新は近代国家に衣替えしたにも関わらず、この地域社会の強制力のようなものを国家規模に拡大した専制的な国にしていった。それは国民のほとんどは伝統社会の様相を自然に受け入れていたので、そのままの姿勢で天皇制を受け入れられたからである。
自由社会
第2次大戦後は専制国家の反省から、欧米式の個人が自立して自由選択する生き方をよしとするようになった。しかし今になって、戦後の教育の果たせなかったことを盾に、戦前のような制度を取り入れたり教育に戻そうという動きがある。
戦後の日本の教育制度や子育ての反省としては、個人の自由選択・自己責任というやり方に馴染めなかったことで、それは親の世代がそのようなことがわからない戦前戦中派であったからだ。
民主主義の国にするのならば個人の自由を尊重しなければならないわけだが、実際には大多数の人は自由選択・自己責任は心もとないと思うだろう。だからそれを支える仕組みが必要であったのだ。
それは欧米では宗教とかボランティアとかが主であろうが、日本の戦後は教育産業のようなメディア化したものが発達した。むしろ文部科学省の公教育制度よりも予備校や通信教育の方が進んでしまったのではないかと思うくらいである。
このことは民力で教育制度のテコ入れができそうな可能性を示していると思う。まずメディアに関してはネットの普及で完全に開かれたものになっていることと、例えばサポートをするボランティアもネットでSNS的にクローズドで面倒をみることができるし、地域でのリアルなソーシャル活動もやりやすくなっているからだ。
従来は国のレベルの政策にまかせていた教育を民間に取り戻せるチャンスがあるともいえる。