投稿日: Jul 21, 2012 1:27:42 AM
TVがなくても音楽はあると思う方へ
CDの売上げが落ちて音楽産業がダメだという見方もあるが、そもそも音楽とは何であるのか、ということを考え直さないと音楽業界に依存しない音楽活動には切り替えられない。個人的にはアメリカ黒人の民衆音楽に興味があるので、記事『ギターを持った黒人(3)』には黒人のクラブでのライブやジュークボックスの音楽のことを書いたが、こういった例は日本にもいくらかはある。沖縄県の島歌というのも民衆音楽として似た状況にあるし、もともと阿波踊りでもなんでも地域に根ざした歌舞音曲は地元の芸能とは関係があるもののはずだ。しかし阿波踊りを音楽として発展させることになっているのかどうかは知らない。
アメリカ黒人が発祥元であるロックとかブギとかは誰か特定の人に著作権を認めるようなものではなく、もともと楽譜もなかったものに、レコードの時代になって無理やり権利をくっつけたようなところがある。実際にレコード上のクレジットでも(traditional)となって、パブリックドメインとして受け継がれているものもあるが、多くは途中で誰かのクレジットになってしまった。しかしそこが発祥元ではないことは皆が承知しているので、似たものが後から出てきても問題になることは少ない。つまりロックはオリジナリティを厳密に詮索しないところに発展の余地が多くあったと思われる。
つまりパブリックドメインと創作性の按配の話になる。民衆音楽民族音楽の場合に曲そのものは似た点が多くパターン化しているのだが、歌詞は歌う人の創作性があるという場合が多い。ブルースからロックにいたる経緯ではこれがベースであったのだが、それは日本で言えば河内音頭が似ていると思う。関西に居た人なら、河内家菊水丸という河内音頭の家元のことを知っている。この人の親の代では三味線に乗せて歌う河内音頭であったが、息子の河内家小菊水丸はバンドで行うようになった。
古い河内音頭のことはよくは知らないのだが、毎年盆踊りのシーズンになると、その年ごとの歌詞があって新曲が発表され、それが結構毎年面白いものでレコードにもなっていたように思う。河内音頭は自分で歌詞を創作して歌えるという点で民衆の音楽である。河内家小菊水丸もグリコ・森永事件とか事件ものや、阪神タイガース、有名人一代記、また世相を題材にした曲をやっていて、そのような音楽の作り方はアメリカ黒人にも大いに通じるところがあった。河内音頭も関西の中の特定の地域での盛り上がりであると思うが、河内家菊水丸の活動範囲はそれよりもちょっと広い。そういった形で音楽活動が継続できることが大衆音楽を文化的に定着させるためには重要であるし、一旦そこまで下がって考え直さないと、TV文化の上にしか成り立たない音楽産業という奇妙なものが支配することになる。
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