投稿日: Mar 23, 2015 1:25:52 AM
音楽家がレコードを出すにはオリジナリティが必要で、先輩のカバー・リメイクで金が稼げるようにはならないが、レコードを買う人は、カラオケ・のど自慢・アマチュアバンドのようにレコードのカバーやリメイクを楽しんでいる。音楽シーンとしてはあたかも一つの世界であるようでも、音楽産業はオリジナリティ重視、ライブではカバー重視である。昔、イカ天での審査風景においても、視聴者の評価の高いバンドは結構カバーぽいものが多く、プロの音楽家の採点ではオリジナリティがないと点がつかないようなカンジであった。
今YouTubeでカバーソングをアップしても知財権的に削除されてしまうと思うが、カバーの世界は別の意味で重要で、カバーをする人の多さとか、繰り返される「厚み」というのが、最終的には「芸」の域を作り出すからである。落語でも新作と古典があって、古典はみんな知っている話なのだが、聴かせるどころというのは話を知っているからこそ焦点があたることになる。バンドも百年一日のようなライブをしているようではあっても、そのなかに個々のミュージシャンの持ち味を見出してもらえれるならばファンがつく。そういう点でレコード会社には相手にされないYouTubeでの「2流~3流」ミュージッシャンを見るのは楽しい。
記事『60年代音楽再考察』では、Mustag Sally の新旧の対照のことを書いたが、この曲が50年も夜な夜などこかのライブで演奏され続けていると、自分の「芸」にしてしまっている人は多いことがわかる。アメリカでBluesやロックが発祥・発展しただけあって、アメリカには無名(音楽産業からすると)の芸人が非常に多くいる。その人たちはもともとレコーディングの機会など求めていないのでレコードは殆ど残していない。1960年代以降でBluesマンの発掘や新発見のブームがあって、彼らに多くのレコーディングの機会を与え、その中からかなりの人がヨーロッパや日本でも知られるようになった。
しかしそういう音楽はカバーやリメイクが中心であったために、個性が出ているにしても芸のアーカイブのようなレコードになっていて、なかなかレコードの販売に於いても新譜扱いがされるものではなく、ほとんどがしばらくするとマーケットからは埋もれた存在になってしまった。最初にLPで出されてもCD化していないものが膨大にあるように思う。
ところがYouTubeで見ていると、アメリカ各地の音楽イベントでは彼らは未だに登場しているようで、リアルな音楽シーンのはしっかり根を下ろして活動してきたことが伺える。
写真はだいぶ前に亡くなったJimmy Spruillであるが、Jimi Hendrixが下積みのバンド生活時代に、Jimmy Spruillが不在の時にはJimi Hendrixが代役をしていたようで、Jimi HendrixのギターもJimmy Spruillの芸風を受け継いでいる。そのJimmy SpruillはJimi Hendrixの死後20年以上も活動していた。もうひとり「俺がJimiにギターを教えた」というJimiの姉の旦那であるGiutar Shortyは今だに現役である。レコード販売をタテに知財権をうるさく言ってリアルな音楽シーンを規制しては芸は積み重なっていかないだろう。
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