投稿日: Oct 10, 2013 12:36:9 AM
必要悪なのか?
秒速10億とかの与沢翼という人はフランクな人で、「秒速10億」は出版社が考えてつけたと言っていた。著者と関係なく宣伝用のイメージが作られることは珍しくは無いが、この場合は著者もそのイメージに喜んで乗っていたと思われる。出版社は著者を鼓舞して内容が面白おかしくなるように働きかけるだろうし、著者は作品が読者の興味をひくように訴求することを出版社に求めるだろう。だからお互いに膨らましあうという関係ができて、少々オーバーな表現になってもどちらも責任をもたないようなことになっている。
著者の実像は誰にとっても関係ない。詮索すべきものでもないのだろう。著術物だけでなく出版社の脚色・演出も含めての作品と考えれば、虚像造りも仕事のうちといえるのだろう。ネットの時代になって、ビジネスの成功物語を書いた人が自分のビジネスに失敗していることがわかると、ああだこうだといわれることがあるが、そんな揶揄や批判をしても何も生まれない。だいたい大昔の人など実像が分からなくても作品が評価されているとか、作者も分からないのに作品が評価されている場合もあるのだから、作品本位主義で考えればよいのだろう。
このことはレコードや映画でも同様で、クリエイト以外の部分ではタダの人に過ぎないタレントでも、スーパーな人間のようにしつらえて売り出すことはよくある。最初のプロモーションのやり方があまりにもクリエータの意図とかけ離れていても、クリエータに実力があれば次第に作品に合った評価に納まっていくものである。
ある時アメリカからメールが来てレコードのレーベル写真が添付してあって、これは何かとの問い合わせであった。それは青江美奈の伊勢崎町ブルースで、日本では演歌歌手として活動していたが、もともとジャズ指向していた人らしい評価があったので驚いた。本人も後年ニューヨークで歌ったりもしている。
青江美奈はプライバシーは秘密のまま2000年に亡くなった。彼女の場合は「秘密」が最高の演出だったのかもしれない。
この写真の左は1956年に(おそらく初めて)イギリスにマディーウォーターズが紹介されたEPカバーである。タイトルにミシシッピーブルースとあるように、黒人農夫が生ギターを弾いている絵があるが、これは白人が勝手に考えたもので、1960年代のフォークブームから今日に至るまで、ブルースといえば黒人農夫という先入観ができてしまっている。
しかし実際には彼は写真右のようなバンドのカタチでR&Bヒットチャートに曲を送り出していて、レコードが全米に配給されるタレントであった。彼は1958年に渡英して、フォークを期待していたイギリス人は実際のエレキのバンドのマディーウォーターズを見てぶったまげたという話があり、その映像はYouTubeにまだあると思う。
その後の白人の理解は、フォークみたいなカントリーブルースと、エレキのモダンブルースというジャンルが別にあるのだな、ということになったのだが、これも間違いで、それは演じる場所の違いでしかない。しかし商品として音楽を扱う場合には、商品特性として際立った特徴が必要になり、あんなブルース、こんなブルースというジャンルを作ってしまっている。それくらいにしないと、今まであまり気に止めなかった人を振り返らせることができないからであろう。
こういうことが常となって作品や人にラベルを貼る(青江美奈なら演歌歌手)のだが、ファンになれば何を歌っても青江美奈の歌として認識してもらえるようになるのだろう。
メディアの作った虚像からの解放は受け取る側の課題なのだろう。