投稿日: Sep 16, 2014 2:4:3 AM
1990年ごろだったと思うがインテルの486が発売されて、パソコンCPUがワークスステーションのCPUに追い付こうとしていた。当時職場ではNECの9801を使っていたのだが、NECの486マシンは100万円という圏外の価格がついていたのに、AT互換機ならば30万円台で486マシンが買えることがわかった。これを日本語にするには当時大変なテクニックが必要だったが、DOS/Vで容易になり、さらにWindowsでUNIXマシンのように使えることが期待できた。そこで秋葉原で中古の486AT互換機を見つけて、なるべく安くしたかったので本体ポッキリをプチプチで包装してもらい、取っ手をつけて家に持ち帰ることになった。
しかし手で持ってみてあまりにも重いのにびっくりした。次の電信柱まで運ぶのがやっとで、電信柱ごとに手を休めながら、JR秋葉原の階段も少しづつトボトボ上って、ほうほうのていで家に辿りついた。さらに冷静に本体を見るとデカいのである。JISのグレーの事務机に載せるとキーボードを置く場所がないくらい占有してしまう。よく写真ではデスクサイドに立てて置いているのがあったが、その理由がわかった。9801ではそのような使い方は当時はなかったのである。
重たい理由はケースの鉄板やシャーシのステンレスにあった。ピストルの弾丸も打ち抜けないくらいのもので、人が上に載ってもビクともしない稲葉物置も逃げ出すような頑丈さだった。日本では絶対に有り得ないツクリなのだが、どういう用途だったのだろうかと思った。また5インチFDDが2台とフルハイトのHDDがついていた。電源も今のAT電源の倍ほどの高さがあり、故障した時に代替品を探すのに苦労したが、ワークステーション用には出回っているやつだった。マザーボードもサーバー用のフルスロットのものが悠に入る。このAT互換機はUNIXワークステーション用だったのかもしれない。
1990年当時の486UNIXであれAT互換機であれ、既に全部品の事実上の標準化がアメリカでは進んでいて、マザーボード、CPU、メモリ、HDDなどは毎年アップグレードするにしても、本体のシャーシなど基礎部分やIFはずっと同じものを使い続けることが行われていた。日本では9801時代に自作PCの領域はなかったのだが、何でもKITがあるアメリカでは自分でコンポーネントを選んでPC自作とか自分でアップグレードをするシステム部門はそれなりにあって、私がよく取材した地方新聞社もたいていそういうことをしていた。私もその後10年以上にわたって中身をアップグレードしながらこの筐体を使い続けた。
私にとってはAT互換機は肉体的にキツい思い出であると同時に、アメリカ流のPC利用をする機会になって得るものが多かったものである。今日までノートPC以外はアップグレードでしのいでいるのだが、この筐体を使わなくなったのは、デスクトップで2台のPCを並行して使うためには邪魔になったからだった。今の希望は5インチスロットに入るようなPCを何台も差し込んで使えるようになるといいなあということである。
すでにPCを2-3年ごとに買い替えるという使い方は終わろうとしているが、そういう時代に相応しいPCの在り方はあまり議論されていないように思う。
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