投稿日: Jun 03, 2010 1:35:17 AM
マスメディアが弱まると民主主義に影響が出ると考える方へ
Wikiのマスメディアの項は何を書きたいのかよくわからない。そのこと自体、今マスメディアを語ることの難しさを現しているのだろう。最初に思い浮かぶのは、リーチするオーディエンスの多さとか、その経営体が巨大な会社という特質である。「ジャーナリズムとマスメディア」でも書いたのだが、マスメディアの意味合いは現代では後者のメディアの大会社のようになった。役割から考えるとマスコミュニケーション(大衆伝達)の方が適切で、国民のデフォルトとしての共通認識をつくるものといえる。マスコミというと人権とか言論の自由とか大義名分が前面に出るが、実際には戦争のお陰で国民への影響力を大きくしたもので、ジャーナリズムとは別概念である。
言論の自由とか社会のバランスという点でジャーナリズムはつぶしてはならないが、マスメディアは社会にとって必須ではない。元がプロパガンダで大衆操作・世論操作的な意味合いをもっていたものを人々は民主主義の擁護装置のように思い込んでいるフシがある。前世紀前半、大衆は受身であり言いなりになると考えられていた時代にマス広告も生まれている。しかし1960年代に広まったテレビなどはメディアの意味も変え、マーシャル・マクルーハンが「メディアはメッセージである」といった頃から、視聴者が自分でメディアを選別するメディアリテラシーが叫ばれた。マスメディアといえども送り手の意図で視聴者に解釈させることはできないものとなったのに、広告主に対してのマスメディアの有効性はプロパガンダ時代と同じように言われ続けていたのかもしれない。
電子メディアの進化の方向はリッチメディアなので、次第に解釈の多義性が加わっていき、プロパガンダという強いメッセージ性は持ち得なくなる。つまり写真や映像は伝えられるものが多いようで曖昧さも大きいということである。マクルーハンも電子メディアの時代における「人間の拡張」は「内爆発」inplosionであると言ったように、伝えられるものの解釈は受け手にゆだねられるところが多くなっていく。そこで受け手の解釈を補強するものとしてソーシャルメディアに活躍の機会がでてくる。つまり集団メディアリテラシーのようなものが生まれつつあるといえる。
日本のマスメディアでもマスコミでも今の10分の1になってもまだマスではあるが、プロパガンダとしての役割はもういらないので、ソ連の機関紙の発行部数が1000万部から数十万部に落ち込んだようなことが起こっても不思議はない。プロパガンダの尻尾を引きずる前世紀的広告も解体されるべきである。タレントさんを起用して商品を売ろうというのは、メディアリテラシー的に言えば無視すべきことだからだ(無くなりはしないだろうが)。
その後ロシアでどのようなメディアの発達があったのか、調べる必要があるなと思う。そこに解体されたマスメディアの新たな出発のヒントがあるかもしれない。