投稿日: May 21, 2014 12:58:1 AM
むしろイノベーションの否定要素かもしれない
私は子供のころから手先が器用だといわれ、自分でも絵や工作に夢中になっている時間が楽しかった。中学の時は電気部でずいぶんいろいろな実験をしたし、自宅では当時どんどん新開発が続いた半導体を使って無線もオーディオも自作していた。高校に入ってまた電気部で活躍するぞと思っていたのに、その高校では世界の名器のレプリカ作りが中心で、自分で回路を考えるような場ではなかったので美術部に転部した。
その頃はSONYなどがトランジスタテレビなど革新的なことをしていたのに、いわゆる手先が器用なだけのモノ作りの職人は必ずしもイノベーションが好きではないことがわかった。高校生の時から過去の名器の模倣をしているようでは、何か新しいものを発明するというところにはいかないだろうと思ったから電気部を去ったのだった。
美術部はさすがに模写はしていなかった。当時は中国で文化大革命揺籃期で、テレビを見ていると中国の美術部の学生がアグリッパやカラカラ帝などどこの美術教室にもあるような石膏像を校庭に引っ張り出して叩き壊していた。京劇批判や古い中国文化の否定というのも相次いで起こっていた。私はそんなことをして何になるのかと紅衛兵の活動を訝しげに思ったのだが、そのことはずっと心にひっかかり、いつも問いかけられているような気がした。
美術の嗜好もキリコやムンクなど葛藤の強いものに惹かれていったし、当時の美術手帳や当時創刊された「話の特集」光文社「宝石」などもアバンギャルドのアーチストがよく登場していて読んだ覚えがある。これが嵩じて大学も美学に進むのだが、その間も紅衛兵が石膏像を壊していたシーンが忘れられなかった。おそらく紅衛兵たちはあまり深い考えなしで壊していたに違いないが、それまでの美術のアカデミズム、いや芸術全般から学問すべてに関しても、なぜアカデミズムが必要なのかという時代の機運ができつつあった。
この答えは未だにない。一般的な言い方としては破壊と創造というようなテーマで時々記事や論評を見かけることがある。しかしこれは一般論では説明できない何かがあるように思う。その第一は戦争の影である。パンクとかハードロックはベトナム戦争の影響が大きい。既存の価値観という世の常識が人々を戦争に駆り立てていったことの反動としてアバンギャルドが生まれることが多いように思う。これは非常に残念なことかもしれない。アバンギャルドは大きな不幸を肥やしとして芽を出すことになるからだ。
つまりこれをイノベーションに置き換えて考えるとすると、人は絶望の淵に立たないと新しい世界が見えてこないことになり、既得の身分や権益を守ろうとする限りイノベーションを否定する側にまわってしまうことになる。そうかもしれない。