投稿日: Jan 23, 2013 3:33:4 AM
かつて新人類という呼び名があったな
コンテンツビジネスを考えれば、若い人の感性とか若い人のクリエイティブ力というのに関心がいくので、そこに何らかの可能性があるだろうということでこのところBlogを書いている。感性とかクリエイティブというテーマではデジタルかアナログかは関係ないのに、必要以上に若者の特性をデジタルネイティブということで特殊視している論調も見受けられて違和感を感じる。若者がコンテンツなりメディアを選択する基準は、それが身近にあるのかどうか、あるいは入手が容易かどうかということにかかっていて、複雑な手順を経なければならないものは若者に知られる可能性は低い。ケータイ文化以降は、彼らにとって最も身近な情報端末がモバイルになったというだけのことで、それがデジタル技術によるものかどうかは誰も気にしていないはずだ。
「デジタル」を脅威のように捉えている人が未だにいるが、その主体は出版文化・紙文化・印刷文化の人で、自分たちが社会の中では少数派になりつつあることが自覚されていない。それは人々が紙をなくそうという攻撃的な考えに基づいてデジタルを利用しているかのような強迫観念を感じるからで、媒体というものは過去からずっと変遷を続けていていて、ビニールのレコード、カセットテープ、VHSテープ、フロッピィなどなどが滅んだのと同じように、紙利用の一部はなくなるのが自然であるとは思ってもらえない何かがある。例えオールデジタルの時代になっても今後ともメディアの浮沈は続くのである。自分たちの身近でも鉛の活字からデジタルフォントに変わっても、レイアウトデザインの本質は変わらないというように、技術変化は避けて通れないものである。
Webであれメールであれ、ネットで無料文化が広がったから、収入の限りがある若者が使うのだということは、雑誌の低落をみても明らかだ。しかし無料文化を支える広告ビジネスというのは、アメリカでは既存のメディアの代替として伸びているものの、日本ではインターネット広告とはいっても目覚しい伸びはしていないように思う。これはマーケティングやプロモーションの差が両国の間にあるからで、つまりアメリカ人が考えるマーケティングやプロモーションがネットで有効だということだ。だからネットメディアの広告モデルは日本的に作り直すか、あるいはビジネスモデルをアメリカ流にするかしないと、よいコンテンツを日本で無料で提供し続けることは出来にくくなるだろう。これも結局はデジタルかアナログかは関係ない。
デジタル技術による有用性はコンテンツとは関係なく、道具の「進歩」であるとずっと言われてきたし、それは有用性がある以上排除できない。それに抗うというのはドンキホーテであると同時に、デジタルにすれば何とかなるという楽天的態度も主体性がないので、いずれもデジタル幻想に囚われている。そういうところからは貧弱なビジネスしか考え付かないだろう。